2年前のあの日、二人は突然侵攻してきたソリヴァチェフ軍を相手に戦うのではなく、逃げ惑う人々の誘導をしていた。
もちろん戦いたかったのは言うまでもない。正義感の強かった二人は、命を賭してでも国を護りたいと思った。
けれどそれは、隊長でもある父の命令で叶わなかった。恐らく、負けるとわかっている戦いで自分の子供を死なせたくないという親心もあったのだろう。
結果として彼らは、数十人の住民とともに生き延びることができた。
王も父も仲間も殺された二人は、ソリヴァチェフに対して言葉ではとても言い表せないほどの強い憤りを覚えた。
「自分たちの手で国の仇を取りたい!」
それは、内乱によってリークレッドが戦死しても収まることはなかった。いや、むしろ彼の死は、彼らの思いをより昂ぶらせた。
怒りの対象が自分たちとはまったく関係ない場所で逝った。平和に暮らしていた何の罪もない人々を蹂躪し、殺戮し、そしてその報復を受けることなく彼は死んだ。
やり場のない怒りは増長し、それまで疎ましく思っていたフォーネスさえも哀れに感じるほどに強く彼らの心に根を広げた。
そして、第一王女リーリスを擁立した新しいソリヴァチェフ王国が、あろうことか全世界に対して、以前よりも遥かに無意味で強大な殺戮を始めたのを見て、彼らは立ち上がった。
それが本当に世界のためを思ってか、それとも自己満足なのかは彼ら自身にもわからなかったが、じっとしていることは出来なかったし、またとないチャンスが訪れたのも確かだった。
二人はまず仲間を集めた。圧倒的な勢力を前に如何に個人が強力な力を持っていたとしても、そんなものは塵に等しいという考えは、以前キルケスを裏で支配していたフォーネスと同じだった。
二人はソリヴァチェフによって滅ぼされた国の生き残った人々や、彼らに対して強い憤りを感じながらも、自分たちだけではとても対抗する力を持たない小国や市民を次々と味方にしていった。
どんなに小さな力でも、それが集まれば必ず強い力になる。役に立たない者などいない。大切なのは、一つのことを同じ志を持った人々が集まり、自らの意思で成し遂げることなのだ。
二人の本当の力は、剣や弓の腕ではなく、その扇動力にあった。人々は彼らの腕前などにではなく、その言葉と意志の強さに従ったのだ。
ソリヴァチェフ王国が世界を蝕みゆくその水面下で、二人は着実に力をつけ、一斉に蜂起するそのタイミングを計り続けていた。
そしてリーリスが女王になってから2年が経ち、ついに彼らは確実な勝算を得て動き始めた。
同じ月の同じ日、同じ時間に、主要な都市で一斉に謀反を起こす。そしてそれぞれの街にいるリーリスとカザルフォートの部下を駆逐し、王城と政権を取り戻すのだ。
世界が以前の輝きを取り戻す日は近かった。
「そしてそれが、3日後の夕刻だ……」
風使いの二人が再会したその日の夜、見張りを交代し、アレイ姉弟が寝静まったのを見計らって、リュースロットがそうクリスィアに説明した。
「俺たちはこれから王都に一番近い街、ホーファスに行き、すでにそこに潜んでいる仲間たちと合流して謀反を起こす」
「そう、だったの……」
あまりの話の大きさに、クリスィアはどう反応してよいのかわからず、曖昧に相づちを打った。
リュースロットは焚いている火の中に薪を放り投げた後、ゆらゆらと揺らめく赤い炎を見つめたまま静かに言った。
「それで……クリス。お前はどうしてここにいるんだ? 一体今までどこに行っていて、何をしようとしている?」
リュースロットが最後に彼女を見たのは、今からもう9年も昔。まだクリスィアがほんの小さな少女の時だった。
もっともリナスウェルナは小さな村だったので、彼女とはもっと子供のときから何度も話したことがあったし、自分の下界への憧れを一番熱く語り、打ち明けたのも彼女だった。
その後、彼は村を飛び出した。
3年前、エルフィレムとともに村に戻り、その有り様を見たとき、彼は他の村人たちと同様、クリスィアも死んでしまったのだと思った。いや、彼女のことを思い出しもしなかったというのが正しいかも知れない。
彼にはすでに風使いとはまったく無縁の、ささやかながら幸せな生活があったから、それまでの生活はほとんど忘却の彼方にあったのだ。
そんな旧友と、思いもしなかった場所でこうして再会したのだ。冷静を装ってはいたが、彼はひどく混乱していた。
クリスィアは彼の質問にしばらく考える素振りをした後、音も立てずに立ち上がった。そしてちらりとリュースロットを見てから、木々の闇へ足を踏み入れる。
万が一にもアレイとフレアに聞かれてはまずいと思ったのだろう。リュースロットもその意を察知して、無言で彼女の後に続いた。
「あの日、フォーネスに襲われた日、私は辛うじて生き延びたの……」
眠っている二人からだいぶ距離を置いて、クリスィアは小声で話し始めた。
「川に流されてから村に戻って、それであの様子を見てすぐに私は、エルムを探すためにリナスウェルナを出たわ」
それが4年前の秋。
それから彼女は、ひたすらエルフィレムの行方を追って旅を続けた。
しかし、一向に彼女の行方がわからないばかりか、クリスィアは人間の世界で生きていくのさえ必死だった。
「だって私、リナスウェルナを出たの初めてだったんだもの。お金の意味さえ知らなくて……仕方ないわよね?」
小さく微笑みながら同意を求めたクリスィアに、リュースロットは一度深く頷いた。もうずっと昔の話だが、彼自身も人間の生活に慣れるのに苦労したのだ。
あるいはシャナリンと出会わなければ、路頭に迷って死んでいたかもしれない。
ふと殺された恋人を思い出して、リュースロットは眉根にしわを寄せたが、すぐに元の顔に戻ってクリスィアの話に耳を傾けた。
「それから私、働いたり、時にはちょっとだけ悪いこともして、一生懸命生きて、エルムを探したわ。きっと生きてるって、そう信じて」
そしてようやく人間の世界に慣れてきた頃、世界が乱れ始めた。それでもクリスィアは幸いなことに、人間界についての知識がなかったおかげで、その世界を受け入れることが出来た。人間の世界はこのように荒れ果て、人々が殺し合うところなのだと。
時には殺されかけ、時には自らの手を血で染めて、ついにクリスィアは風を操る少女の噂を耳にした。そしてその少女が世界をこんなふうにしてしまったと聞いたとき、彼女はそれがエルフィレムであると確信した。
「……どうしてだ?」
リュースロットに聞かれて、クリスィアはため息混じりに答えた。
「だってあの子は、人間を強く恨んでいるはずだもの。村を滅ぼされて、両親も友達もみんな殺されて、それで笑っていられるような子じゃない。あの子は正義感が強くて、そして、とっても心が弱い子だから……」
そこで一度言葉を切り、悲しげに視線を落としてから泣きそうな声で言った。
「人を恨み続けることでしか、生きていくことができないのよ」
「…………」
苦しそうに鳴咽を洩らすクリスィアの髪を、リュースロットは目を細めてじっと見つめていた。
嵐の前の、あまりにも静かな夜だった。
やがて、まだ涙に震える声で、クリスィアが呟くように言った。
「だから私、エルムに会って、あの子を止めたいの。助けたいの。リュースも……そのためにあの人たちと一緒にいるんでしょ?」
リュースロットは一度彼らのいる方向を見てから、「ああ」とそっけなく答えた。
「だからアレイには俺たちのことは言ってないし、エルフィレムのことも話していない。時が来たら……そしてそれが避けられなければ、俺は彼らを裏切るつもりだ」
「そう……」
クリスィアは憔悴したように重々しく息を吐いた。
それはリュースロットの考えに納得できなかったからでも、エルフィレムに会うための道具としてしか使われていない彼らのことを思ってのことでもなかった。
彼女は彼と同じ考えでいた。ただ、疲れたのだ。この世界に。醜いだまし合いに。
「まるで狐と狸の化かし合いね」
自嘲気味に洩らしたその呟きに、リュースロットは無表情で頷いた。
「そうだ。自分の目的のためには味方だってだます。こういう世界なんだよ、ここは。そして、それが人間なんだ」
そんなリュースロットの横をゆっくりと歩きながら、クリスィアは最後に小さく言葉を吐いた。
「私は、ずっと風使いでありたい」
深緑の髪を風になびかせながら、彼女はアレイたちの方へと歩いていく。
そんな彼女の背中を黙って見つめていたリュースロットだったが、不意に溜めていた感情を吐露するように早口で問いかけた。
「なぁ、クリス」
「……何?」
クリスィアは振り返らず、足だけ止めて聞き返した。
「お前は……お前は人間を恨んでないのか? 村をあんなふうにした人間を赦せるのか?」
長い沈黙があった。
息をするのさえはばかられるような張り詰めた空気の中で、リュースロットはただじっと、彼女からの答えを待ち続けた。
そして、次に彼女が呟くように言った一言が、リュースロットの胸の奥にわだかまり、しこりを残した。
「私は、あの子とは違うから……」
抑揚のない、どこまでも無感情な声だった。
背中を向けている彼女の表情を見ることもできず、彼はその言葉の真意を量りかねた。
「それは、どういう意味なんだ?」
聞き返そうとした刹那、突然周囲の森がざわざわと音を立てて、二人は素早く身構えた。そして半ば反射的に大声を上げた。
「アレイ、フレア! 起きろっ!」
彼らまで距離があったが、恐らく今ので十分彼らに届いただろう。
それよりも今は、いきなり周囲を満たした殺気の正体。
油断なく身構えた二人の目に飛び込んできたのは、暗闇の中から現れた十数人の男たち。どうやらさっきの連中同様、ソリヴァチェフ王国の盗賊のようだ。
彼らを押し分けるようにして、一回り立派な剣を携えた男が姿を現したとき、背後からアレイの声がした。
「お前は、まさかカザルフォートかっ!?」
カザルフォート。リーリスを懐柔した盗賊団の長。
風使いの二人を囲むようにして立ったアレイ姉弟に向かって、男はニッといやらしい笑みを浮かべた。
「いかにも。お前たちがくだらないことを考えている勇者様ご一行かな?」
4人をすっかり取り囲んだ盗賊たちが、一斉に剣を抜き放った。
「どうしてお前がここにいる? どうやって俺たちのことを知ったんだ?」
抜き身の剣をしっかりと握り締めて、アレイが周囲に油断なく目を配りながら聞いた。
その隣ではフレアが弓を構えている。
リュースロットはクリスィアをかばうようにして立った。恐らく風使いとしての能力を使わない限り、彼女に通常の戦闘力はないだろう。そう判断したためだ。
クリスィアもリュースロットの意を察知して、大人しく一歩下がった。
臨戦態勢に入った4人を見ながら、カザルフォートが不敵な笑みを浮かべた。
「さあな。俺はあの女の命令でここに来ただけだ」
「あの女? お前たちの裏にいる、風を扱う悪魔のことか!?」
「いかにも」
アレイの問いかけに、カザルフォートは人を食ったような笑みで答えた。そしてもう話し合うことはないと言わんばかりに剣を握り締める。
それを見てアレイはたたみかけるようにして言った。
「そいつはどこまで知っている? お前たちはなんて言われてここに来たんだ?」
戦いを引き延ばそうとしているわけではなかった。ただ、自分たちの計画がどれくらい洩れているのかを知りたいだけだったが、次のカザルフォートの反応に、アレイは内心で胸をなで下ろした。
「どこまで? 何のことだ?」
偽る様子もなく、本気で首を傾げた盗賊団の頭領を見て、アレイはまだ自分たちの計画が露見してないことを確信した。あるいは、していたとしても同じだろう。もう遅い。
もしも今、ここに来たのがカザルフォートではなく、彼女本人であったらまだ計画が狂う可能性もあっただろうが。
アレイは今回の戦いのすべてにおいて、自分たちの勝利を確信した。
「最後のチャンスを逃したな」
侮蔑を孕んだ声でアレイが言って、それが戦闘の合図となった。
ビュンッ!
鋭く風を切る音と共に、フレアの弓から矢が一直線に盗賊の首を貫いた。
そして素早く二本目の矢をつがえるのと同時に、アレイとリュースロットが大地を蹴った。
「ちっ! かかれ!」
まさか盗賊の自分たちが、勇者気取りの子供に先手を取られるとは思ってなかった。
カザルフォートは手下に怒鳴るや否や、自分に向かってきた緑の髪の青年に分厚い剣を振り下ろした。
人数では圧倒的に不利だったが、個々の能力においてアレイたちは彼らを遥かに凌駕していた。
フレアが弓を放つたびに、確実に盗賊の数が減っていく。
そしてそんな彼女に近付こうとする者はことごとくアレイに邪魔をされ、彼と打ち合っている最中に次のフレアの攻撃に殺された。
アレイ自身も確かに強かったが、彼は多人数を相手にするときは、直接相手を討ち倒す役を姉に任せていた。
それだけ彼女の狙いは正確であり、どれだけアレイが激しく敵と打ち合っていても、その狙いを外すことがなかった。
鎧を着けている者を相手にする場合は、剣よりも矢の方が遥かに殺傷力に長ける。
二人の絶妙なコンビネーションに、盗賊たちは次々とその数を減らしていった。
「くそぅ!」
一人ずつ、しかし確実に殺されていく仲間を見て、カザルフォートは焦っていた。
一刻も早く弓使いを倒したいと考えていたが、彼女に近付くことはおろか、目の前の緑髪の青年さえどけることができなかった。
「ええい! 貴様っ!」
カザルフォートは信じられないスピードでその巨大な剣を振り下ろしたが、リュースロットもまた風のような速度でその剣をかわし、次の瞬間には彼の懐に飛び込んでいた。
盗賊の長は青年の身のこなしに長剣では歯が立たないと見て剣を捨てた。代わりにダガーを両手に持ち、リュースロットの攻撃を受け流す。
大柄な体躯をしていたが、やはり盗賊である。個人戦では短い獲物の方が圧倒的に使い勝手がよい。
上手く相手の攻撃をいなしながら、彼は少しずつ位置を変え、フレアの背後に回った。
そして、振り下ろされた剣を左手に持ったダガーで受け止めると、
「行けぃ!」
気合を入れるようにそう叫んで、右手のダガーを思いきりフレア目がけて投げつけた。
確かに彼女の弓は優れていたが、彼もまたナイフの投擲には自信があった。
しかし次に彼が見たのは、突然その勢いをなくし、虚しく地面に落ちてゆくダガーだった。
「な、なんだとっ?」
驚愕に目を剥いてから、彼はようやく、今まで何もしていなかった女の存在に気が付いた。
彼らを統べる風使いの少女と酷似した髪の色の女に。
青ざめたカザルフォートに、小さな声でリュースロットが言った。
「わざわざお前をあいつらの死角に行かせたのはな、俺にも都合がよかったからだよ」
言い終わるや否や、鋭い風の音がした。
自分自身がよく戦場で目にした、エルフィレムの使う風の刃。
見えないその刃が自分の胸を切り裂くのを感じた後、彼は大量の血を吐いた。
盗賊カザルフォートの最期だった。
「よしっ!」
カザルフォートが死に、最後の一人を自らの手で薙ぎ倒してから、アレイは血で汚れた剣を高々と空に突き上げた。
木々の隙間から見える空が少しずつ白み始めていた。
夜明けだ。
「さぁ、今日中にホーファスに入って、そして戦おう! 夜明けは近いぞ!」
声高らかに宣言したアレイの剣に、リュースロットが不敵な笑みを浮かべて剣を重ねた。
アレイはそんなリュースロットに、少年のごとく嬉しそうに微笑んだが、クリスィアには彼が今どんな思いでいるのかわからなかった。
複雑な顔で立ち尽くすクリスィアの隣で、フレアが元気の有り余る弟をやれやれと言った表情で見つめていた。
それぞれの思惑の渦巻く中、戦いの幕開けを告げるように朝陽が彼らを照らし出した。
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