騒然とする城内には悲鳴が溢れ、兵士たちの詰め所や炊事場、至るところから炎が噴き出し、やがて城全体を包み込んだ。
それは再生を望まない、完全なる破壊。
長く人々を虐げてきたソリヴァチェフ王国の王都に、人々はもはや一縷の存在価値も認めなかった。
赤々と燃え盛る浄化の炎の狭間に響き渡る剣戟。
けれど時が経つに連れて、その音も少なくなっていく。盗賊たちが殲滅されようとしていたのだ。
部屋に、通路に、階段に、城内のありとあらゆるところに死体が無造作に転がっている。
人間の血と体液が白い廊下を満たし、壁には折れた剣が突き刺さっていた。
そしてそれらを舐めるように焼き尽くす炎。炭化する死体と、火力によって崩れ落ちる柱。
地獄のような光景の中を、一人の少女が走っていた。
盗賊たちの影の長にして、“混沌の風の姫”と畏れられた風使いの少女、エルフィレムである。
しかし、今の彼女にはその威厳のかけらもなかった。瞳には涙が浮かび、気を緩めればそのまま泣き崩れそうな表情で一心に走り続ける。
焦りと悲しみ。
返り血で赤くまだらに彩られた空色の衣が、彼女の悲壮感を一層高めていた。
彼女の悲しみの源。それは、決して戦いに敗れたからでも、この場から逃れる術を持たないからでもなかった。
理由はただ一つ。
彼女の愛する少女、セリスが部屋にいなかったからである。
(セリス、どうして? どこに行っちゃったの?)
開戦前、彼女はセリスに決して部屋から出ないよう言い聞かせた。
王女であるセリスの部屋は、城の中でもかなり高い位置にある。それ故、そこが一番安全だと判断したのだ。
もし敵が城内に侵入してきたとしても、彼らより先にセリスの許に辿り着ける。
だから彼女は安心していた。セリスは部屋を出ろと言われても出られないような娘である。少なくとも自分の近くの場所以外で、敵の手にかかるようなことだけはないと確信していた。
ところが、ついに敵が城内に攻め寄せ、勝ちをあきらめて部屋を訪れたとき、セリスがいなかったのだ。
室内に荒らされた形跡や血痕、あるいは抵抗を試みたような跡がまるで見られなかったことから、恐らくセリスは自分から部屋を出たのだろう。
彼女にはその理由が理解できなかった。ひょっとしたら、自分を探しに来たのかもしれない。
けれど、今までどんなことがあっても部屋を出ず、言い付けを守ってきた娘である。
騒ぎに便乗して逃げようとしたのだろうか。今まで自分の前で見せていたあの笑顔は、すべて偽りだったのだろうか。
不意に右手から飛び出してきた革命軍の兵士に、苛立ちを叩き付けるように風の刃を繰り出して、彼女は大声で叫んだ。
「セリス、どこ!? お願いだから出てきて! あなたは……あなただけはあたしを裏切らないで!」
泣き叫びながら、彼女はすでに人の住むような場所ではなくなった死者の都を走り続けた。
同じ頃、セリスは自分でもどこかよくわからない部屋の隅にうずくまり、膝を抱えて泣いていた。
もう長いことそうしている。
どこかでまた柱が崩れ落ちたのか、凄まじい破裂音が聞こえて、セリスは固く目を閉じて身をすぼめた。
開かれた扉の向こうに見える通路の壁に、真っ赤な血がねっとりと付着している。
味方のものか敵のものか。それはわからなかったが、その血がセリスを怯えさせていることに変わりはなかった。
何度も扉を閉めたい衝動に駆られたが、扉の閉まっている部屋と開いている部屋のどちらに人が気を取られるかは理解していた。
それにセリスにはもう、動く気力がなかった。
数時間前、セリスはエルフィレムの言い付けを破って部屋を飛び出した。
何者かがこの城に押し寄せてきていることを知り、城内が慌ただしくなり始めたのが今から数日前。
それからセリスは、胸の中でどんどん膨らんでいく不安を殺して、部屋の中でじっとエルフィレムが迎えに来てくれるのを待ち続けていた。
聞きたいことはたくさんあったが、彼女は慌てているようだったし、自分が言葉が喋れないこともあって、何も聞かずに我慢していた。
彼女が話さないことは知る必要がない。彼女を信じていれば、きっと自分が思い付く以上の状態に導いてくれるはず。
そう信じ続けていた。
けれど、限界だった。
窓から見える街に火の手が上がり、やがて自分の部屋にまで聞こえるほどの喚声が城内を包み込んだとき、セリスは居ても立ってもいられなくなった。
とにかくエルフィレムの許へ行こう。ただその思いだけを胸に走った。
しかし、エルフィレムがこの城に来てからほとんど部屋を出たことのないセリスは、彼女がどこにいるのか知らなかった。
初めに亡き兄の部屋を訪れ、姉の部屋を訪れ、次に王の間を訪れたときにはすでに城は炎に包まれ、自分の部屋に戻ることさえできない状態だった。
そして時折見かける敵か味方かもわからない人間たちから逃げ回り、とうとう疲れ果ててこの部屋に辿り着いたのだ。
セリスには何も出来なかった。
死にたくはなかったが、一人で逃げる勇気もなければ、そんな自信もなかった。
一瞬姉の顔が頭をよぎったが、先程部屋を訪れたときはすでにもぬけの殻だった。とうに逃げた後なのか、それとももはやこの世にいないのか。
いずれにせよ、リーリスには自分をこの窮地から救い出すだけの力がない。やはり信じれるのはエルフィレムだけだった。
ドタドタと大きないくつかの足音が近付いてきて、そのまま廊下を走り抜けていった。
血走った眼をした男が部屋の向こう側にちらりと見えて、セリスは思わず息を止めた。
誰かが通るたびに、すでにここが安全な場所ではないと思い知らされる。
もしも誰かが扉の前で立ち止まり、部屋の中を覗き込んだら……。
そう思うと、セリスは呼吸をすることさえ恐怖に感じられた。
炎のせいか、部屋の中が異様に暑かった。このままではたとえ敵に見つからなかったとしても、炎に焼き殺されるか、崩れ落ちる城とともに生命を失うことになるだろう。
セリスは迷った。
しかし、声を出せず、武力も持たない自分がこの部屋を飛び出したところで、敵に見つかるより先にエルフィレムを見つけられる可能性は限りなく少ない。
それよりは、エルフィレムがこの部屋の扉の前を通り過ぎてくれるのを待つ方が、まだ希望的に感じられた。
セリスはあまりのもどかしさと不甲斐なさに、思わずこぶしを固めた。生まれつき弱い身体と、他力本願な自分が情けなくて、悔しかった。
……不意に自分を呼ぶ声が聞こえたのはその時だった。
遠くから、ほんの微かだけれど、確かにその声は自分の名を呼んでいた。
高く幼く、けれどいつも大人ぶっていた少女の声。
セリスは床に張り付いていた腰を引き剥がした。
エルフィレムが生きている。生きて自分を探している。
もはや周囲のことなど気にもかけずに、セリスは薄暗いその部屋を飛び出した。
幸いなことに、通路には生きている者はなかった。無造作に転がる死体に吐き気を催しながら、それでも懸命に声の許へ駆けた。
「セリスーっ! どこなの!? お願い、出てきて!」
少しずつ大きくなっていく声。それがそのまま希望のように思えた。
返事をしたくても出来ないもどかしさを必死に堪えながら、セリスはやがて見覚えのあるT字路に辿り着いた。
確か城の庭に近い場所のはず。ここでエルフィレムと合流できれば、二人して脱出するのも容易に思われた。
「セリスっ! セリスー!」
すぐ向こうで声がする。
セリスは勢い良くT字路を飛び出して……見た。
左に、こちらに背を向けて走っていくエルフィレムの深緑色の髪と、右に、そのエルフィレムの背中に焦点を合わせて、弓を引き絞っている女の姿を。
ぞくりと、背筋に悪寒が走った。
エルフィレムは弓使いの存在に気付いていない。このままでは彼女はあの女に射殺されてしまうだろう。
しかし、声を出せないセリスには、彼女に弓使いの存在を伝える術はない。あったとしても、声の他に、弓矢より早く伝える方法など思い付かなかった。
一瞬足が止まったのは、セリスなりに必死に多くのことを考えたから。
もしもエルフィレムが殺されてしまったら、もはや自分に生きる道はない。ならばせめて、一人でも多くの人間が助かった方がよい。
再びセリスの足が床を蹴った。
ちょうど、弓使いとエルフィレムとで作る直線の真ん中に向かって……。
運命を嘆く時間さえ、セリスには与えられなかった。
ビュッと鋭く風を切る音がした次の瞬間、セリスは額にものすごい衝撃を受けて崩れ落ちた。
ゴトッと、まるで鉄球を床に落としたような、低くて鈍い音がした。
反射的に風の防壁を張って振り返る。
やや距離を置いた向こう側に弓を持った女がいて、その女に寄り添い合うようにして立つ、抜き身の剣を携えた男。どうやらまた敵兵が現れたらしい。
しかし、そんなことはエルフィレムにとって大したことではなかった。敵は殺すだけである。
それよりも、先程の音の正体。
自分と彼らの中央に転がっている小さな身体。
仰向けに倒れ、額に矢を突き立てている少女。
「セリ……ス……?」
声を出したのか否か、自分にもわからなかった。うわ言のように呟いて、有り得るはずもない光景を前にしたように、目を見開いてふらふらと歩き出す。
もう一度、エルフィレムにとっては初めて飛んできた二本目の矢が、風の防壁に流されて壁に突き刺さった。
彼女はそれにはまるで注意を払わずに、恐る恐る、しかし次第にその速度を速めながら、床に寝転がる小さな身体へ歩いた。
彼女の愛した少女は、悲しむでも苦しむでもなく、かと言って決して満足したふうでもなく、ただ無表情のままその骸を床に投げていた。
「セリス……」
片膝をついて頬に触れると、肌にはまだ温もりがあり、柔らかな感触が指先から伝わってきた。
まるで生きているように血色も良い。先程まで生きていたのだから当然だ。
けれどもう、セリスがその瞼を開いて、あの弱々しくも穏やかな瞳で彼女を見上げることはない。
声を聞いたことはなかったが、笑うときには薄く開かれていた唇も動かない。
優しく髪を撫でてくれた手も、温かく包み込んでくれた腕も、すべてが、この額に突き刺さる一本の矢によって殺されてしまった。
セリスは紛れもなく死んだのだ。
ただ、悲しい現実だけが横たわっていた。
エルフィレムはゆっくりと立ち上がった。
先程よりも勢いを強めた矢が再び彼女に襲いかかったが、やはり風の障壁を破れずに失速して床に落ちた。
その矢を放った女と、彼女の仲間の若い男を、彼女は鋭い瞳で睨み付けた。
それはいつか、滅びたリナスウェルナでフォーネスの部下に見せたよりも遥かに強い怒り。
涙もなく、ただ怒りに全身を震わせて、人間を、運命を、神を、そしてこの世界のすべてを呪いながら、エルフィレムは血を吐くように叫んだ。
「お前たちは……お前たちだけは、絶対に許さないっ!」
周囲の壁が砕けるほど強い風の刃を握り締めて、哀れな風使いの少女は、自分に残されたありったけの力を込めて床を蹴った。
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