■ Novels


第3話 バイト
 私の高校からの友達である猪谷涼夏は、ショッピングモールに入っている雑貨屋チェーンでアルバイトをしている。遊びに行きたいという話題は何度も出ていて、涼夏も是非来てほしいと応じているが、一度も実現していない。
 そういうわけで、そろそろ本当に一度行く決意を表明すると、絢音が一瞬表情を曇らせた。もしかして行きたくなかったのだろうか。空気がわずかに張り詰める。それを敏感に察知したのか、絢音が慌てて手を振った。
「違う。そうじゃない」
「無理強いはしないよ? 距離もあるし」
 涼夏が心配そうに絢音の顔を覗き込んだ。絢音は涼夏の手を取って大きく首を振った。
「まさにそれ。単にもうお小遣いが残ってないからどうしようって思っただけで、気持ちだけならもう電車に乗ってる!」
 面白い表現だ。椅子に座ったまま頷いていると、涼夏がうーんとわざとらしく目を閉じてから、明るい顔で笑った。
「よし。じゃあ、私が絢音のICカードに500円チャージしよう」
「それはダメ。一方的にもらうのは、今後の付き合いに影響する」
「じゃあ、体で払って」
 そう言って目を細め、怪しく微笑みながら絢音の顎に手を当てた。そして、柔らかな輪郭を指先でなぞってから、その指をペロリと舐める。まるで意味がわからない。私が呆れながら眺めていると、絢音が微かに頬を染めて頷いた。
「それなら……」
 いいのか。こいつら、レズだな。
 絢音の小遣いは5千円と聞いた。私よりは少ないが、一般的には決して少ない額ではない。ただ、帰宅部の活動は地味にお金がかかる。塾のない日が週に3日。毎回300円でも3,600円になる。それに、土日遊んだり小物を買ったりしたら、月末の今、お金がないのは当然だ。
 対して涼夏は、4月の給料が4万円くらいと言っていた。コスメや服に使っているとはいえ、まだまだ残しているだろう。私たちと遊ぶことも、バイトをしている理由の一つだと言っていた。だから、絢音のために少しくらい使うのは、涼夏にとってはどうということはない。絢音もそれはわかっているが、甘えづらい厚意なのも理解できる。
「何してもらおっかなー」
 涼夏が嬉しそうにそう言いながら、リュックを背負って教室を出た。どうやら、絢音の気が楽になるように言っただけではなく、本当に何かしてもらうつもりらしい。絢音と涼夏の仲が良くなるのはいいことだが、関係が深まり過ぎて私が邪魔になる展開だけは勘弁願いたい。
 2つ隣の教室を通り過ぎると、丁度部活に行こうとしていた奈都と鉢合わせた。肩につくくらいのシャギーのかかった髪と、少し着崩した襟元。涼夏と似た雰囲気があるが、涼夏より大人びた顔立ちをしていて、気の強そうな眉をしている。肩にはバトンケース。入学後、色々悩んだ結果、「屋内で」「体を動かして」「あまり本気ではない部活」ということで、バトントワリングを始めた。
「これから帰宅部?」
 奈都が私を見て相好を崩す。私の中学からの親友ということもあって、絢音にも涼夏にも早くに紹介してある。涼夏が「そっ」と頷いて軽やかに笑った。
「今日は私のバイト先に招待する」
「いいなぁ。楽しそう」
「ただいま帰宅部は大変入部条件が厳しくなっておりますが、ナッちゃんなら無審査で入部できます」
 涼夏がそう言いながら、気さくに奈都の肩に手を乗せた。なんだか、中学時代の友人と高校からの友人が仲良くしているのは不思議な気分だ。家に遊びに来た友達が、親と話しているようなむず痒さを覚える。
「前向きに検討するね」
 奈都がへにゃっと情けなく眉を曲げた。私は心配になって顔を覗き込んだ。
「部活、上手くいってないの?」
「全然そんなことはない。ようやくサムフリップができるようになって、楽しくなってきたとこ。苦手な子もいないし」
 奈都が勝ち気に微笑んだ。その瞳に無理をしている様子はなかったので安堵の息をつくと、奈都が優しい眼差しで笑った。
「ただ、私もチサと遊びたいわけよ。二人ならわかるでしょ?」
 奈都が同情を誘うように言って、隣の二人が大きく頷いた。涼夏が無念そうに眉根を寄せて、軽く私の肩を抱き寄せた。
「千紗都のことは任せて、ナッちゃんは部活を頑張って。あっ、帰宅部は絶賛部員を募集中なので」
「それはさっき聞いたから!」
 下まで一緒に歩いて、手を振って別れる。背中を見送ってから、涼夏がニヤッと笑った。
「ナッちゃん、落ちるな」
「落としたいの?」
「帰宅部の強力な戦力になるね。顔面レベルの向上?」
 それはもちろん冗談だろう。いや、決して奈都が可愛くないという意味ではなく、涼夏は単に自分と絢音がいない時に、私が一人にならないように考えてくれているだけだ。もちろん、奈都と一緒に遊びたいという思いもあるだろうが。
「涼夏、愛してる」
 そっと微笑むと、涼夏はぎょっとしたように目を見開いて、一歩後ずさりした。
「いきなり何?」
「涼夏、優しいなって思って」
「これまでの会話で、私が千紗都への優しさを見せたシーンはなかったと思う。何か勘違いしてるなら、せっかくだからそのままにしておく」
 涼夏がふふんと笑うと、絢音が可笑しそうに肩を震わせた。
「今澤さん、帰宅部に入ってくれるかなぁ」
 今日は真っ直ぐ最寄り駅に歩きながら、絢音がふんわりと笑った。心から奈都に入って欲しそうだが、今のところ絢音は、涼夏ほど奈都に心を許していない。控えめだが決して人見知りというわけではない。絢音の距離感はよくわからない。いきなり耳に舌を入れてくるような子は、私には難しすぎる。
「私の予想だと、入らないかな」
「えー! 千紗都からも入るように説得してよ。千紗都と一緒にいたいって想いは本当だと思うし」
 涼夏が不服そうに頬を膨らませた。そんな仕草も実に可愛い。
 涼夏の言う通り、奈都が私と遊びたいのは間違いない。だからこそ毎日一緒に登校しているし、土日も頻繁に遊んでいる。もっと言えば、これは私も本当かどうか測りかねているが、ユナ高を選んだのも私がユナ高にしたからだと言っていた。冗談と笑い飛ばせない程度には、私たちは仲がいい。
 にも関わらず、奈都はバトン部に入った。バトンに思い入れがあったわけでもないし、知っている友達がいたわけでもない。私は2つの理由から反対したが、奈都は私とは毎朝会えるからと言ってそのまま入部してしまった。
「3年以上一緒にいるけど、奈都のことはよくわからない。まあ、絢音のこともわからないし、わかりやすいのは涼夏だけか」
「心外だから! 私、絶対に千紗都が思ってるより奥深い女だから!」
「私は逆に、千紗都が思ってるほど難しくないよ。ただコミュ障なだけ」
 二人が口を揃える。私は思わず噴き出して口元を押さえた。
 可愛くて面白い仲間たち。ここに奈都が入る光景は想像できる。できるけれど、中2のあの日、それでも部活を続けた奈都が、自分の意志で始めた部活をそんなにすぐに辞めるとは、私には思えなかった。

 上ノ水からイエローラインで数駅。絢音の定期券の範囲外の駅で降りると、宣言通り涼夏は乗り越し精算で絢音のカードにチャージした。改札をくぐってから、絢音がツラそうに首を振る。
「かたじけない」
「かたじけない! 私、現代でかたじけないって言う子、初めて見た!」
「現代って……。生まれ変わりか何かなの?」
「私、先代が徳川家慶なんだよね」
「先代……。前世のこと?」
「それだ!」
 涼夏が明るく笑う。家慶は何代目の将軍だっただろう。覚えていないが、とにかく二人とも楽しそうだ。
 バイトまで時間があると言うので、3人でショッピングセンターの中を見て回った。涼夏は相変わらずファッションに興味を示すが、絢音の反応は薄い。涼夏が服を持って試着室に行ってしまったので、絢音に似合いそうな服を物色しながら聞いてみた。
「絢音は、オシャレしたいとか思わないの? 可愛いのに」
「2強の一角に可愛いって言われてもなぁ。メイクはともかく、服は好きだよ。でも、欲しくても買えないし」
 絢音が切ないため息をつく。それは一理ある。でも、高くて買えないものを眺めているだけでも楽しいのがショッピングではないか。そう主張すると、絢音は困ったように笑った。
「意見の相違だね。わかるよ? フォアグラの乗ったステーキとか、見てるだけで幸せになるよね」
「それに近い」
 涼夏はさんざん試着して、結局何も買わなかった。なかなか逞しい。私ならあれだけ試着したら、申し訳なくて買ってしまいそうだ。最初から買えないものは試着しない。なるほど、絢音の言っているのは、そういうことかもしれない。
 そろそろ時間だと言うので、また後でと手を振った。絢音も同じようにすると、涼夏がからかうような瞳で絢音を見た。
「今日はハグはしないの?」
「またすぐ会うじゃん」
 絢音がくすっと笑う。どこか勝ち誇ったような眼差し。私はその理由を理解して、思わず笑いそうになって口元を押さえた。涼夏もそれに気が付いたようで、盛大にため息をついた。
「いつの間にか、絢音のハグがないと満足できない体になってしまった」
「パブロフの涼夏。完全に手なずけた」
 絢音がグッと拳を握ってから、ふんわりと涼夏を抱きしめた。学校でするのと同じ、ほんの2、3秒。それでも満足そうにして、涼夏は手を振って走って行った。
「今日は涼夏と絢音、すごく仲が良さそうで妬けるなぁ」
 隣で手を振る絢音に冗談でそう言うと、絢音は私を見上げていたずらっぽく笑った。
「また、耳を舐めてほしい?」
「いや、それはいい!」
 先日のことを思い出して、私は慌てて手を振った。途端に顔が熱くなる。私も手なずけられているのだろうか。
 絢音が私の手に指を絡めて、その手を口まで持ち上げた。
「涼夏とは遊び。本命は千紗都だから」
 まるで似合わない妖艶な微笑みを浮かべながら、私の手の甲に唇を押し当てる。少しひんやりした柔らかな感触に、背筋が震えた。それだけに飽き足らず、そのまま指まで唇を這わせると、私の親指を口に含んだ。
 チャプンと、親指が絢音の舌の下に溜まった唾液に落ちる。絢音の舌がぬるりと指に絡みついて、私はゾクッとして固く目を閉じた。
「涼夏へのお礼も、こういうことするの?」
 虚勢を張って何でもないようにそう聞くと、絢音は私の指を解放してから、静かに首を横に振った。
「涼夏とは、まだここまでのボディータッチレベルに達してない」
「ギリギリの追及ね」
 笑いながら親指を見ると、べったりと唾液が付着して、館内の明かりを受けてイヤらしく光っていた。せっかくなので親指を舐めてからハンカチで拭くと、絢音が驚いたように私を見つめていた。
「何?」
「いや、舐めるとは思わなかった。動揺を隠せない」
「それは私の台詞だから」
 冷静にそう指摘すると、絢音は何やら嬉しそうにはにかんだ。今の笑顔で、うぶな男子なら5人くらい殺せたと思うが、幸いにも私は涼夏や奈都みたいな可愛い子を見慣れているから、辛うじて生き延びた。
 涼夏がバイトに入ってから10分くらいしてバイト先の雑貨屋に行くと、取り扱っている商品同様、シンプルなデザインの制服を着た涼夏がレジに立っていた。私たちに気が付いて小さく手を振る。邪魔にならないように離れたところから眺めていると、絢音が憧憬を抱くような目で言った。
「働いてるってすごいよね。私たち、まだ15歳だよ?」
「確かに。あの涼夏が、すごく大人っぽく見える」
「私はもしバイトとかしたら、友達には見られたくないかも。なんか恥ずかしい」
「私もそっちかなぁ。それはもう、完全に性格の差だね。涼夏はいいヤツだ」
 別に見られたくない絢音を悪いヤツだと言ったわけではなかったが、訂正する必要もなく、絢音は同意を示すように頷いた。
 みんな15歳。私と絢音は2日違いで9月が誕生日。涼夏は11月。私の友達では奈都が一番早くて来月。そろそろ誕生日プレゼントを用意しなくてはいけない。平日の夕方。客も少ないし、せっかくなので涼夏を捕まえることにした。
「店員さん、友達への誕生日プレゼントを選びたいので、手伝ってください」
「かしこまりました。どんなお友達ですか?」
「体を動かすのが好きで、元気で……雰囲気はちょっと店員さんに似てるかな」
「その子のこと、愛していますか?」
 さらっと聞かれて、変な声が出そうになった。絢音は変な声を出して、両手で顔を押さえて肩を震わせた。突然なんてことを言うのか。他の店員と客に見られないように80%くらい本気のデコピンを放つと、涼夏が額を押さえて悶絶した。
 シンプルなデザインが売りの店なので、誕生日プレゼントにするにはいまいち見栄えがしない。涼夏は化粧水でも贈ったらどうかと言ったが、奈都はあまりそういうものに興味がない。もちろん、最低限のスキンケアはしているだろうが、今使っているものに十分満足しているだろう。
 アロマディフューザーはどうかと言われたが、予算オーバーだった上、値段の割にデザインに惹かれなかった。今までじっくり見たことがなかったが、私はここのデザインはあまり好きではないかもしれない。いや、自分で使う分にはいいが、誕生日プレゼントには向いていない気がする。
 せっかくなので涼夏に色々な商品を説明してもらってから、結局何も買わずに店を出た。もし説明してくれたのが知らない店員だったら、やはり申し訳なくて何か買っていたかもしれない。
 カフェにでも入りたかったが、絢音が金欠なのでショッピングセンターの外のベンチに腰掛けた。金欠なのは私も同じだ。絢音よりたくさんもらってはいるが、奈都のプレゼントも買わないといけない。
 絢音が私の腕に手を通して、コツンと肩に頭を乗せた。
「色々見たら、色々欲しくなっちゃった」
「すごくわかる。お小遣い勢には厳しいね」
「千紗都は私の倍ももらってる」
「まあ、一人っ子だからね」
 当たり前のようにそう言うと、絢音は驚いたように顔を上げて、しばらくポカンと口を開けたまま私を見つめた。至近距離なので無駄に緊張する。口の中を眺めていたら、親指を舐められたことを思い出して顔が熱くなった。
「そっか。私は上にも下にも兄弟がいるから、親も大変なんだ」
「聡明な絢音さんにしては、気付くのが遅くありませんか?」
 私は1万円もらっている。スマホ代も出してもらっている。西畑家でもスマホ代は親が出しているようだから、絢音の両親が3人の子供にかけている金額は、うちの比ではない。私が1万円ももらっていながら、時々不満に感じる理由もそこにある。収入が同じだと仮定したら、子供が一人しかいない野阪家は、もっと可愛い一人娘にお金を注いでもいいのではないか。
 もちろん、そんなことは絶対に両親には言えないけれど。
「お小遣いね、最初は3千円って言われて、勉強頑張るからって言って条件付きで5千円にしてもらったの」
 その話は知っている。どんな条件かは知らなかったので聞いてみると、テストの順位だそうだ。20位以内なら5千円、それより下なら次の試験まで3千円。幸いにも、20位どころか、初めての中間試験で絢音は学年4位だった。
「絢音とはもっとお金のかからない遊びも考えないと、だね」
 絢音の髪に頬を押し付けると、絢音は私の手を握って小さく首を横に振った。
「今のままで十分。マックやファミレスで勉強する以上にお金のかからない遊びなんて、思い付かない」
「そもそも勉強は遊びじゃない」
「感じ方には個人差があります」
 くすっと笑って、絢音が柔らかく目を閉じる。夕方の風と絢音の体温が心地良い。この子は私や涼夏に甘えながら、対等な立場を保っている。私と奈都の関係とは少し違う。今まで私には奈都しかいなかったから、二人の個性は新鮮だし、とても楽しく感じる。
「ギリギリの追及か」
 呟きながら、指先で絢音の唇に触れると、絢音が眠たそうに目だけで私を見上げた。
「何? キスしたいの?」
「キス、したことある?」
「ない。私の初めては千紗都にあげる」
「それはありがたい」
 感謝の言葉を述べて、しばらく髪を撫でていると、絢音が何やら難しい顔で私を見た。
「キス、してくれるんじゃないの?」
 真っ直ぐ見つめられて、私はたじろいだ。
「えっ? いや、そういう意味じゃなかった。してもいいけど、絢音が先か涼夏が先かでモメそうだから」
「モテモテだね。涼夏の後でもいいよ」
「いや、なんか私、変なことを口走ったかもしれない」
 勝手に涼夏が私とキスをしたい設定にしてしまった。そもそも、さらっと「してもいい」とか言ってしまった。恥ずかしくなって俯くと、絢音がくすくすと笑い声を立てた。完全に遊ばれている。
 風も気持ちも穏やかだ。涼夏のバイトが終わるのを待つのはさすがに無理だが、時間の許す限りこうしていよう。
 目を閉じたら、胸に抱え込まれた腕から、少しだけ速く打つ絢音の鼓動が伝わってきた。もしかしたらそれは、自分のものだったかもしれないけれど。