■ Novels


第10話 ケンカ
 運の良し悪しがもし本当にあるとしたら、私は運がいい方ではないだろう。そんなことを言ったら怒られるだろうか。そこそこ人に好かれる容姿で生まれ、高校でも、入ってすぐに涼夏や絢音のような友達が出来た。十分に幸運だと言う人もいるだろう。
 ただ、サマセミで絢音がバンドを手伝うと言い、その日程を聞いた時、私には嫌な確信があった。3日間に渡って開催されるサマーセミナーの中で、ステージ企画でバンド演奏が行われるのは初日の土曜日。それは丁度、奈都から部活で地域のイベントに出るから見にきて欲しいと言われていた日だった。
 その日程は随分前に決まっていて、私は二つ返事でOKした。その時はまだ絢音が音楽をすることすら知らなかったし、サマセミの日程を聞いた後も、何とかなると期待していた。会場は遠いが、例えば絢音の出番が午前なら十分はしごできる距離だった。言ったところでどうなるわけでもないから、私はそのことを絢音のタイムテーブルが確定するまで誰にも言わなかったのだが、それがいけなかったのだろうか。
 終業式まで数日になり、絢音から出演時間を聞かされて、私は思わず頭を抱えた。どう考えても間に合わない時間。嫌な確信は現実に変わった。
「どうしたの? もしかして、何か予定があった?」
 絢音が心配そうに私の肩に手を乗せる。私は涙目で首を横に振った。
「いいの。絢音は悪くない。全部私の業のせい」
 絶望しながら奈都の部活の話をすると、絢音は眉根を寄せて険しい表情をした。
「それは、残念だけど仕方ないね」
「うん。奈都に謝る」
「えっ? そっち?」
 絢音が驚いたように顔を上げた。私はキョトンと首を傾げて絢音を見つめた。
「どうして?」
「先にナツと約束してたんでしょ?」
「私は先か後かだけで、優先度を決めないけど」
 極端な例を挙げれば、友達とカフェに行く約束をした日に結婚式が入ったら、結婚式に行く。同じ帰宅部の絢音が、センターでギターを弾きながらステージで歌うのと、元々入ることすら反対したバトン部の発表を比べたら、当然絢音の方が楽しみだ。そのために絢音のいないぼっちの日々も我慢してきた。
 何でもないようにそう伝えると、絢音は難しい顔で唸った。
「バンドとバトンのどっちが大事かはわかった。でも、バンドとナツのどっちが大事かは考えてね。私はその理由で千紗都が来れなくても、1ミリも千紗都を非難しない」
 絢音が重苦しい息を吐く。そんな絢音を見ながら、私はまだ、心のどこかで事態を楽観視していた。

 翌朝、いつものように奈都と駅で合流して学校に向かった。奈都は夏休みになったら一緒に宿題をしようと、明るい顔で笑っていた。バトン部は元々そんなに本気の部活ではなく、夏休みの部活も週に2日しかない。まるで長く入院していた子が病院から出て来たように、最近は夏休みに遊ぶ話ばかりしている。奈都も私と遊びたがってくれるのは、本当に嬉しい。
 だから、大丈夫だと思った。上ノ水で電車を降りて騒音がなくなると、私は静かに切り出した。
「奈都、土曜日なんだけどね」
「うん」
「行けなくなっちゃった。ごめん」
 胸の前で軽く手を合わせてそう告げると、奈都はパチクリとまばたきしてから、微かに首を傾けた。
「用事が入っちゃったならしょうがないけど、どうしたの?」
「うん。話してた絢音のバンドの時間が決まって、奈都の方に行けそうにない。ほんとごめん」
 きつく目を閉じて謝ると、奈都が足を止める気配がした。そして、私の想像とはまったく違う言葉が私の耳朶を打った。
「どういうこと? 意味がわからないんだけど」
 いつもより低くて、ゆっくりな口調。弾かれるように顔を上げると、奈都は可愛らしく小首を傾げ、しかしまったく笑っていない目で私を見つめていた。私は思わず息を呑んで背筋を伸ばした。
「その、同じ日なのは知ってたんだけど、時間が確定してなくて」
「私の方は日程も時間も確定してたよ。だいぶ前から」
「そうだね。だから、本当にごめんね?」
 謝る以外に出来ることはない。悪いのは完全に私であり、弁明の余地もない。私が頭を下げると、奈都は目を見開いて、いよいよ余裕のない顔で歩き始めた。
「全然意味がわからない。後から入った予定を優先するの?」
「もちろん、奈都の演技だってすごく楽しみにしてたよ? 私が一番悔しい感じ」
 首を振って無念を訴えたが、奈都は見たこともないような冷たい眼差しで私を睨んだ。
「言ってること、わかってる? 私よりアヤの方が大事ってことだよね?」
「そんなこと言ってない! 絢音のバンド演奏の方が楽しそうっていうだけで、絢音と奈都の優先度じゃない!」
「私の方は楽しそうじゃないってこと?」
「だから、比較の話だって」
「チサ、元々私がバトン部に入るの、反対だったもんね。いいよもう。二度と誘わない」
 怒りを隠すことなくそう吐き捨てて、奈都がスタスタと歩いて行く。私は思わず眩暈がして、慌てて追いついて奈都の手を取った。その手を、奈都が乱暴に振り解く。
「今日は一人で行く。明日の朝もいいや」
 そう言って、奈都は私の顔も見ずに小走りで行ってしまった。私は呆然と立ち尽くし、それからゆっくりと歩き出した。

 教室に入ると、涼夏が私の椅子に後ろ向きに座って、絢音の机に突っ伏していた。その髪を絢音が苦笑しながら撫でている。
「おはよ。どうしたの?」
 私がバッグを机に置くと、涼夏が顔を上げて私にすがりついた。
「前髪切りすぎた。もう人前に出られない!」
 そう言って顔を上げる涼夏をじっと見つめたが、確かに切った分短くはなっていたが、切りすぎたというほどでもなかった。
「大丈夫。可愛いよ?」
「でも、昨日より短い!」
「そりゃ、切れば短くなるでしょ」
 呆れながらそう言うと、絢音が笑いを堪え切れないように肩を震わせた。涼夏を押し退けて座ると、椅子が生温かかった。夏には要らないサービスだ。
 通学路での奈都との喧嘩を思い出してため息をつくと、涼夏が「ん?」と首を傾げて私の髪に指を滑らせた。
「どうした?」
 顔を上げて二人を見ると、絢音は何かを察したように、真剣な目で私を見つめていた。私はもう一度ため息をついてから、絶望的な声で言った。
「奈都と喧嘩した」
 簡単に事情を話すと、絢音がやれやれと首を振った。
「だから言ったのに」
「そんなイベントがあったなんて、全然知らなかった。どうしてそれを、私も絢音も知らないのか。正妻イベントだから内緒にしてた?」
 涼夏がおどけるように訴える。その声に嫉妬の色はない。二人を誘っていなかったのは、何となく恥ずかしかったからだ。奈都が自分で誘うならともかく、私から声をかけるのも変な気がした。
 いや、それも言い訳かもしれない。私は奈都が可愛い衣装を着て人前で踊るところを、人に見られたくない。それは友達であってもだ。もし奈都が、先程の会話からそういう私の差別意識や嫌悪感を感じ取ったのなら、ますます事態は深刻だ。
「私の方はいいから、今からでもナツに謝って、そっちに行った方がいいと思う」
 絢音が冷静にそう言ったが、私は否定するように首を振った。
「私がそっちに行きたいの。絢音のためじゃない。それに、もう宣言した今、意見を変えたって、奈都は喜ばないと思う」
「それはそうかもだけど。私、ナツに恨まれたくないよ?」
「奈都はそういう子じゃないよ」
 そんな話をしていたらチャイムが鳴った。また後でと言って、涼夏が席に戻って行く。
 結局のところ、どうすればいいのだろう。私は奈都に人前で踊って欲しくないし、絢音の方に行きたいという気持ちも変えられない。謝る以外に出来ることはないが、奈都は許してくれそうにない。
 一日中考えたが、結論は出なかった。心配する絢音と別れて、涼夏と二人で帰路につく。「それにしても」と前置きしてから、涼夏が言った。
「千紗都、意外と平気そうだよね。ナッちゃんはわかってくれるっていう、正妻ビリーブ?」
「んー、わかんない。やれることがないから、天運に任せるしか……」
 平気ではない。奈都に嫌われたら、本当に悲しい。
 だが、奈都に好かれるために自分の大事な信念を変えるつもりはない。この件で奈都が私を許せないのなら、私もそんな奈都のことが好きなのかよくわからない。涼夏のいう正妻ビリーブとは、そういうことだろうか。訥々とそう語ると、涼夏は困ったように苦笑いを浮かべた。
「それは、私は変わる気がないから、そっちが合わせないならおしまいだねって脅してるだけ。信頼でも何でもない」
 目から鱗な意見だった。突き放しているだけと言われたらそうかもしれない。そんなつもりはなかったが、今まで奈都と大きな喧嘩をしたことがないから、落とし所がわからない。
 バイトに行くからと、涼夏が手を振って帰って行く。
「終業式までに仲直りしなきゃダメだよ」
 涼夏が心配そうにそう言ったが、いくら考えても何も浮かんでこなかった。

 時薬というものに期待したが、ひと晩たっても奈都からは何の連絡もなかった。朝、少し早めに駅に行って待っていたが、奈都とは会えなかった。急な用事でもなければ、意図的に私を避けていることになる。
 絶望的な気持ちで学校に行くと、絢音が心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「進展なし?」
「うん。もうダメかも……」
 弱気な発言をすると、絢音が私の頬を両手で挟んで、優しい瞳で微笑んだ。
「諦めずに仲直りしてね?」
「絢音は、私と奈都が仲良しの方がいいんだね?」
 少し意地悪な質問をしてみる。奈都は私が絢音や涼夏と仲良くしていることを、100%喜んでいるわけではない。ましてやこんなことがあった後だ。奈都はそんな子ではないとは言ったが、もしかしたら心のどこかで、絢音がいなければと思っているかもしれない。
 絢音はどうだろう。正面から真っ直ぐ瞳を見つめると、絢音は「んー」と可愛らしく指を立てた。
「もちろん、このコミュニティーにナツがいる方が嬉しいよ? でも今は、千紗都がちゃんと仲直りできるかが心配なの」
「同じに聞こえる」
「違う。今回はナツだったけど、この先私や涼夏と喧嘩した時、千紗都がちゃんと仲直りしてくれるのか、それが心配ってこと」
 絢音が柔らかく私の心をえぐる。実際、私は少しだけ心が折れかけていた。もうこのまま奈都とは仲直りできないとさえ考え始めた。そしてそれを、心のどこかで、仕方がないと諦めている。
「泣いてすがりつくくらいの緊張感が欲しい。今回は千紗都が悪いよ? ちゃんと謝った? もしかしたらナツも、自分なんて千紗都にとってその程度の存在なんだって、ショックを受けてるかもしれないよ?」
 耳が痛い。まったくその通りだ。私がしょんぼりと項垂れると、絢音が私の髪を優しく撫でた。
「可愛い。ここが教室じゃなかったらキスしてる」
 うっとりと微笑む絢音に、私はほっと息を吐いた。奈都との件が、絢音や涼夏に波及することだけは避けたい。もしかしたら私は、もちろん友達に優劣をつけてはいないけれど、それでも敢えて選ぶとしたら、奈都より絢音と涼夏の方が大事なのかもしれない。
 そんなことを、私は望んでいない。二人が奈都を正妻だとからかうたびに、当然そうだと感じていた。奈都は私のすべてだった。中学の時、部活を辞めて一人ぼっちだった私を、奈都だけが構ってくれた。そばにいてくれた。
 でも、もしかしたら、私はそれだけの理由で奈都に固執しているのかもしれない。そして今、新しい友達が出来たから、私は奈都を捨てようとしているのだろうか。
 いや、いつだって離れて行くのは奈都の方だ。私を置いてバトン部に入った。今回だって、謝ったのに許してくれない。誕生日会の帰り道、号泣した感情は嘘ではない。私は奈都と離れたくない。
 結局お互い声をかけないまま、一日が終わった。放課後は涼夏と遊んだが、気が晴れなかった。
「早く仲直りしないと、色々やばいよ?」
 涼夏が心配そうにそう言ったが、具体策は何もなかった。やばいのはわかっているが、ひたすら謝る以外にできることがない。もう一度謝って、「でも来ないんだよね?」とでも言われたら、今度こそもうおしまいだ。そこで「じゃあ、行く」というのは、絢音に対しても申し訳ない。
 人も関係も変わっていく。そろそろ最悪の展開も考えなくてはいけないかもしれない。
 涼夏と別れた後、私は電車の中でグッと唇を噛みしめた。

 翌日、終業式前日。涼夏が何とかしろと忠告したタイムリミットまで残りわずかだが、打開策は何もなかった。もしこのまま夏休みに突入したら、本当に関係が終わってしまう。
 奈都と丸2日も言葉を交わさないのは、少なくとも高校に入ってからは記憶になかった。土日両方会わない時でも、メールの1通くらいは送っている。今はそのメールすらない。
 憂鬱な気持ちで駅に向かうと、いつもの出入口に奈都が立っていた。私を見て、明るい笑顔を浮かべる。
「おはよ」
「あ、うん……」
 動揺しながら頷くと、奈都は私の手をギュッと握って引っ張った。
「行こっ!」
「うん……。奈都?」
 手を繋いで歩きながら、恐る恐る呼びかける。奈都は視線を逸らすことなく、穏やかに私を見て首を傾げた。
「何?」
「怒ってないの?」
「んー、一昨日は私も言い過ぎたね。ごめんね」
「ううん。奈都は何も悪くない。ごめん」
「いいよ」
 拍子抜けするほど軽やかにそう言って、イエローラインのホームに降りる。ずっと手を握っていること以外は、すっかりいつも通りだ。やってきた電車に座ると、奈都が私の手に指を絡めながら恥ずかしそうに口を開いた。
「売り言葉に買い言葉っていうか、二度と誘わないとか言っちゃったけど、誘うから。暇な時は見に来てね」
「うん。本当にごめん」
「だから、いいってば」
 奈都が屈託なく笑う。その笑顔に含むところはないが、私は強い違和感を覚えた。
 あれだけ怒っていた奈都が、どうして私を許してくれたのだろう。もちろん、奈都とてあのまま喧嘩別れするつもりはなかったのだろう。謝り方はともかく、私はすでに謝った。関係を維持するために奈都にできることは、許すことだけだったのかもしれない。涼夏の言う通り、私は奈都に、選択の余地のない脅しをしてしまったのかもしれない。
 まるで2日前の朝に戻ったかのように、奈都が夏休みに遊ぶ話をしている。上ノ水までずっとそれに相槌を打ち、駅を出てすぐに私は改めて聞いた。
「奈都は、どうして私を許してくれるの?」
「どうしてって、別にそんなに大したことでもなくない?」
「でも、すごく怒ってた」
「うん。だからそれはごめんって」
 奈都が苦笑いを浮かべる。私は慌てて首を振った。
「違うの。私が悪いの。私はもっと奈都にちゃんと謝らないといけない。本当にごめんなさい」
「だから、いいってば。そんなに罪悪感があるなら、今度また1時間あれしよ?」
 奈都がにんまりと笑って、背中をなぞるように私の腰に手を回した。ぴったりとくっつく肌が熱い。嫌いな人間にできる行動ではない。
「奈都、怒ってないの?」
「怒ってないよ。私が目下一番心配してるのは、チサが勝手に罪悪感を覚えて、私から離れていくことなんだけど」
「あー、うん。そっか」
 もう一度手を握る。何度も謝りたかったが、何度謝っても奈都は「いいよ」と繰り返すだけだろう。
 まだ胸にしこりはあるが、今回の件で奈都は100%悪くない。奈都がいいのなら、私もまた今までのように振る舞おう。
 学校に着くと、笑顔で手を振って別れた。教室に入ってすぐに、涼夏の襟首を掴んで自席に座る。帰宅部の二人に今朝の話をすると、案の定二人は何とも言えない顔で私を見つめた。
「だよね」
 私はあははと乾いた笑いを浮かべて頭を掻いた。展開が不自然すぎる。それは私もわかっているが、何がおかしいのか上手く言葉にできない。
「私は、ナッちゃんは貸し1つで手を打ったんだと思う。絢音はどう思う?」
 涼夏がそう言って見下ろすと、絢音は机に片肘をついて頬を乗せた。
「涼夏の言った脅しの話は私も聞いたけど、結局ナツにはそれしか選択肢がなかったんじゃないかな。許すか捨てるか、究極の2択を迫られたら、その状況なら私もナツと同じ選択をする」
「もっとちゃんと謝りたいけど、謝らせてくれない」
「私には、それがナツのささやかな抵抗って気もするけど。千紗都に謝らせないっていう」
「私は、あの子はもうちょっとさっぱりした子だと思うよ?」
 涼夏が奈都を擁護する。単に千紗都と一緒にいたいから、自分が折れることで丸く収めただけだと、涼夏はわかったふうに言った。
「私はどうしたらいい?」
 怯えながら意見を求めると、二人が可笑しそうに頬を緩めた。
「千紗都のそういうしょぼいとこ、すごく好き」
「しょぼいとか言うな」
「千紗都の方からいっぱい声かけて、いっぱい遊ぶのがいいんじゃない? ナッちゃんの根底にあるのは、千紗都の中で自分の存在が小さいっていう不安だから、ナッちゃんのことを必要としてるって、態度や行動で示すしかないよ」
 涼夏の言葉に、絢音も同意するように頷いた。今のアドバイスに付け加えることは何もない。表情がそう語っている。
 私は胸が熱くなって、思わず立ち上がった。
「涼夏、抱きしめていい?」
「いや、ほんとにやめて。教室だから」
「我慢できない」
「我慢せい!」
 一歩近付いた私に、涼夏が慌てたように両手を伸ばした。その手が胸に当たって、涼夏が顔を赤くする。絢音は可笑しそうに微笑んでいる。本当にいい友達を持った。
 2日間、結局私は連絡をしなかった。奈都から声をかけてもらった。何も悪くない奈都に謝らせてしまった。
 この夏休みは、どんどん私から声をかけて、たくさん遊ぼう。それくらいなら、しょぼい私にもできそうだ。