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第7話 雨
 雨は好きじゃない。制服は濡れるし、髪の毛はごわごわするし、日の入り前なのに暗いし、気が滅入ってくる。傘の下から陰気な顔で空を見上げると、隣で涼夏が困ったように微笑んだ。
「そんな顔しないで。今度遊んであげるから」
「私たちも、ずっと千紗都といたいと思ってるんだよ?」
 絢音が同調して、傘を持ってない方の手で、軽く私の腕を掴んだ。私は思わず顔を赤くして首を振った。
「いや、違うし! 雨でうんざりしてただけだし!」
 今日は絢音は塾、涼夏はバイトで、駅までしか一緒にいられない。それは実際寂しいのだが、ため息をついていたのは空模様に対してだ。本当なのに、二人はまったく信じていない瞳で、両隣から挟み込むように私を見つめた。
「無理して強がってる千紗都に、私は涙が出そう」
「雨でうんざりしてたんだね。わかるよ」
「ねえ。二人とも、どうしても私を、友達のいない寂しい女の子にしたいんだね?」
 ジトッと睨むと、絢音が可笑しそうに肩を揺らした。
「千紗都が私たちなしじゃ生きられない設定は、面白いと思う」
「わかる!」
 涼夏が全身で同意して、力強く頷いた。愛情の裏返しだろうか。有り難いが、できたらもう少し素直な表現をして欲しい。
「私が一人遊びが得意すぎて、二人の欲求を満たしてあげられないのがツライ」
 無念そうに首を振ると、涼夏が「よく言うわ」と軽く小突いた。
 雨だったので上ノ水から電車に乗って、古沼で絢音と別れる。電車の中なのでハグもなしだ。遊んでいくからと恵坂で席を立つと、涼夏が開いた手を可愛らしく振った。
「寂しくて死にそうだったら、バイト先に遊びに来ていいから。私を眺めるだけならプライスレス!」
「はいはい。考えておく」
 涼夏と別れてホームに降りると、まずスマホを確認した。まだ16時前。2時間くらい暇を潰そうと思ってスマホを仕舞おうとしたら、丁度メールが飛んできた。母親からで、今日は帰りが遅くなるから、食事は外で済ませるよう書いてあった。
 私はしばらく絶望的な気持ちでメールを眺めていたが、明るい文面で「千円だからね、千円!」と返した。ご飯が用意できない時は、外で好きなものを食べろと言われている。千円以内でお釣りはもらえるから、貴重な臨時収入だが、今日は一人なので家で食べたかった。
 周囲では中高生のグループがワイワイ楽しそうに喋っている。雨なのに上機嫌で何よりだ。思わず漏れた感想があまりにも陰気だったから、自分で虚しくなった。自分とて、いつもは涼夏や絢音と楽しく過ごしている。
 とりあえず何をしようか。前に絢音に勧められてヒトカラを試したら、想像以上に楽しくなかった。私は歌うのが好きなのではなく、みんなと一緒に過ごすのが好きなのだと分析したら、絢音が「あー」と納得したように頷いていた。
 自分でも無趣味だと思う。絢音は一人の時は時々カラオケで歌っていると言っていたし、涼夏はウキウキしながらショッピングを楽しむと言っていた。一人で店に入って店員が寄ってくるのも、涼夏は刺激があって好きらしい。静かに服を眺めたい私とは違う人種だ。
 前に買った小説は途中で挫折した。話題作だったが、人が死ぬことで泣ける話は好きではない。明るい恋愛小説にも挑戦したが、なんだか見せつけられているような気持ちになって読むのをやめた。小説にしろドラマにしろ、私は他人の人生で感動するより、自分で動いて感動したい。そう分析したものの、特に何もしていない。
 元々バドミントンをしていたし、何か体を動かす趣味でも作ろうか。ただ、一人でできることには限界があるし、何をするにもお金がかかる。やはり部活に入るべきだっただろうか。奈都と一緒にバトンを回すのも、今思えば楽しそうに感じるが、さんざん涼夏や絢音と楽しい時間を過ごしておきながら、たまにこうして一人になっただけでそんなことを考えてしまうのはあまりにも情けない。
 私は人間のクズなのではなかろうか。こんな日は、考えれば考えるほど憂鬱になる。
 街角で雨を見ながらぼんやり立っていたら、突然声をかけられた。
「ねえねえ、一人なの? 誰か待ってる?」
 顔を上げると、大学生くらいの男が二人、爽やかな笑顔を浮かべて立っていた。わかりやすいナンパだ。適度に置いた距離に、上から目線にならないよう、おどける振りをして姿勢を低くしたりと、なかなか手練れの動きだ。私も全然誇りたくはないが、ナンパされた数は両手で足りないのでよくわかる。
「誰も待ってない。黄昏れてただけ」
「何かあったん?」
「別に何も」
「暇してるなら遊ばない?」
「暇してるけど、遊ばない。彼女に悪いんで」
 思わずそう口走って、自分で自分の発言に首を傾げた。自分でも意味がわからなかったくらいだから、当然男たちは面食らった顔をして、好奇心に満ちた目で私を見た。
「彼氏じゃなくて彼女なん? 付き合ってんの?」
「そう。ラブラブ」
 誰とだろう。架空の彼女を想像したら、帰宅部の二人と奈都の顔が浮かんだ。勝手に彼女にして申し訳ないが、もう少しそういう設定にさせてもらおう。
「女の子同士って何するん? 女友達と遊ぶのとは別なの?」
 男たちが楽しそうに声を弾ませた。いつに間にか、ナンパモードから、動物園で珍しい陸の生き物を見るモードに変わっている。
「別に普通。手を繋いで歩いたりとか」
「それ、女の子ってみんなするじゃん。キスとかするん?」
「キスはした」
 そう言ったら、3人いた候補が涼夏一人に絞られてしまった。仕方がないので、涼夏を彼女という設定にして、男たちの好奇心を満たしてあげる。随分話が弾んでから、男の一人が笑って言った。
「キミ、面白いわ。普通に友達にならん? 奢るから飯行こうぜ。不安だったらファミレスとかでいいし」
 そう言われて、私は一瞬心が揺れた。死ぬほど暇しているし、どうせご飯は食べないといけない。それに、少なくともこれまで10分以上喋っていてつまらなくはなかったし、悪い人たちではなさそうだ。
 その逡巡を男たちは見逃さなかった。相手は手練れだ。だが、こっちもナンパされた経験だけは豊富だった。男が肩に手を伸ばそうとしたわずかな動きに反応して、スッと身を引いた。
「彼女に悪いから、ご飯は付き合えない。アンタたちが女なら友達になれたかもね」
 ヒラッと手を振って、人混みの中に逃げ込んだ。男たちはしばらく後をついてきたが、完全に無視を決め込んだらやがて諦めて去っていった。

 さっきのは危なかった。マックでシェイクを飲みながら、私は一人で反省した。
 女の子が寂しさのあまり男とどうとか、話には聞いたことがあったが、まさか自分が一瞬でもそんな気持ちになるとは思わなかった。もちろん、相手がやり手だったのはある。ただ、一番は私の心が弱っていたせいだ。いつもの私なら、そもそも最初から話に乗っていない。
 涼夏からもらったキスの写真を眺めながら、ため息をつく。彼女に悪いことをした。いや、彼女ではないが、叱って欲しい。目が覚めるよう、頬を叩いてくれてもいい。むしろ叩いて欲しい。
 無性に涼夏に会いたくなって、バイトをしているショッピングセンターに行ってみることにした。定期券範囲内でいつでも行けるのだが、頻繁に行っても迷惑だろうと、基本的にはバイト中には行っていない。ただ、今日は冗談でも会いに来ていいと言われているし、行ったら呆れながらも喜んでくれそうな気がする。
 まだ18時前。バイト先の雑貨屋に行くと、涼夏は制服姿で店内を歩いていた。いつもの笑顔に、なんだかほっとする。せっかくだから声をかけようと店に入ると、涼夏が驚いたように眉を上げて、自然な動きで近付いてきた。
「本当に来てくれたんだ。寂しかったの?」
 涼夏がいたずらっぽくそう言ったが、目はどこか真剣だった。私が来るとは思っていなかった。そう顔に書いてある。それは私に期待していないからではなく、私が気を遣ってなるべくバイト中は来ないようにしていることを知っているからだ。
「別に。バイト終わるまで待っていい?」
「いいけど、まだ2時間以上あるよ?」
「今日、家にご飯がないから、買い物したりフードコートでご飯食べてるよ」
 私の言葉に、涼夏は納得したように頷いた。私の両親が共働きなのはすでに知っている。その上で家にご飯がないということは、つまり両親の帰りが遅いということだ。涼夏がそれに気付かないはずがない。
「じゃあ、待ってて。私はご飯はうちにあるから、悪いけど一人で食べてね」
「そのつもり」
 小さく手を振って雑貨屋を後にする。
 外はどんよりと雨が降り続けていたが、ショッピングセンターの中は白くて明るい。それに、声と音に溢れている。いつの間にか気持ちが穏やかになっているのは、それらに加えて、涼夏の声を聞いたおかげもあるかもしれない。癒し系美少女だ。
 シェイクを飲んだばかりで、まだそれほど空腹ではなかったので、若者向けの服を見て回ることにした。2時間はなかなか長いが、やることのない退屈で孤独な2時間と、涼夏を待つ2時間はまったく別のものだ。
 なんとなく服を試着したり、帽子をかぶったり、靴を履いたりしてから、フードコートでかつ丼を食べた。安く済ませるとそれだけ臨時収入が多くなるが、それを目的に食べないようならこの制度を止めると言われているので、サラダもつけた。私は自分で考えるより真面目なのかもしれない。
 食事の後は涼夏に本屋にいるとメールして、立ち読みして時間を潰した。やがて涼夏がやってきて、「お待たせ」とあくびをしながら私の肩に手を乗せた。
「眠そうだね」
「眠いよ。楽しくても仕事は仕事。結構疲れるんだよ」
「涼夏は偉いね。私は働ける気がしないから、将来養って」
 手を握ってなるべく可愛く微笑むと、涼夏は実に冷静に私を見ながら目を細めた。
「とんでもなく可愛かったけど、そのご要望にはお答えできません」
「涼夏の愛なんて、そんなもんだよね」
「愛には見返りが必要です」
 くだらない話をしながら外に出る。せっかくだからフードコートでお喋りでもしたいが、もう20時を回っている上、まだ火曜日だ。涼夏も疲れているようだし、早めに解放してあげるべきだろう。
 雨はいつの間にか上がっていた。ショッピングセンターから駅までは少し距離がある。しばらく手を繋いで喋っていたが、ふと会話が途切れた時、私は深く息を吸って本題を切り出した。
「涼夏。お願いがあるんだけど」
「んー? 何?」
「私を叩いて」
 静かにそう告げて顔を上げると、涼夏は足を止めて、見たこともない顔で私を見つめていた。じっと見つめ返すと、涼夏が我に返ったようにまばたきをして、ゆっくりと私の手を振り解いた。
「急用を思い出した」
「今、大事な話をしてるから」
「急いで帰らなきゃ。千紗都、今までありがとう」
「真面目に聞いて」
 解かれた手をもう一度握ると、涼夏が大きく首を振って額を押さえた。
「千紗都の思考回路には何度も驚かされてるけど、群を抜いてる。私と別れてから4時間の間に、何があった?」
 涼夏が呆れた顔で私を見た。
 何かと言われると、ナンパをされて、思わず心が揺れた自分を叱って欲しいだけだが、ナンパをされた話をしたら涼夏は心配するだろうし、心が揺れた理由を言うわけにもいかない。言えば涼夏は、絢音の塾の日にシフトを入れてしまったことに責任を感じるだろう。私は、私の子供じみた感情で、涼夏の行動を制限したくない。
「ただ、目覚めただけ」
「いや、目覚めるな。戻ってこい」
「頬をね、叩いてくれない?」
「嫌だし。っていうか、私の話を聞いて」
 涼夏が慌てた様子で手を振った。なかなか可愛らしい仕草だ。私は涼夏を軽く抱き寄せながら、もう片方の手で涼夏の手を取って私の頬に当てた。
「痛みを知りたいの」
「ウケるわ。とにかく、世界で一番可愛いと思ってる千紗都の顔を叩くなんて、絶対に無理だから」
「涼夏にしかこんなこと頼めない!」
「私にも頼まないで!」
 涼夏が漫才のようなスピードでそう言ってから、ピチッと私の頬に手を当てた。
「はい、叩いた。これでいい?」
「ダメ。涼夏に叩かれないと、私は心に傷を負ったまま生きて行かなくちゃいけない」
「意味わからん! むしろ私が心に傷を負うから!」
「その傷は私が癒してあげるから。思い切って。人助けだと思って」
「えーん。絢音、助けて。この人、怖いよ……」
 とうとう涼夏が嘘泣きを始めて、助けを求めるように周囲を見回した。雨上がりの夜。ショッピングセンターから駅までの道には人の流れがあるが、一本入ったここには誰もいない。人が見ているからという退路を断つと、涼夏はしばらく挙動不審に手や首を動かしてから、がっくりと肩を落とした。
「私は愛する千紗都の頬を、意味もわからず叩かなきゃいけないの?」
「そうしてくれると嬉しい。私は罰を受けなきゃいけない」
「何したの? 万引きでもしたの?」
「いや、そういうのじゃないけど」
 涼夏の発想に目をパチクリさせると、涼夏は疲れ切った表情でため息をついた。
「いつか話せる日が来たら話してね」
「うん」
「叩いても、関係は変わらないよね? ぎくしゃくしたりとか、嫌だよ?」
「大丈夫」
 力強く頷くと、涼夏は怯えた顔で手を上げた。怯える涼夏というのもなかなかレアだ。知り合ってから丸3ヶ月経つが、私の前で涼夏が怯えるようなシーンはなかった。
 じっと見つめていると、涼夏は震える手を私の顔の横に持って来て、荒い息を吐いた。どれくらいの位置から、どれくらいの力で叩けばいいか迷っているようだ。マンガだと、力いっぱい振りかぶって叩くシーンがよくあるが、あれは普通に治療が必要な怪我をするだろう。たぶん手首のスナップだけでも十分痛い。
「私、誰かを叩いたこととか、ない」
「私も。叩いたことも叩かれたこともない」
「本当の本当に、私を嫌いになったりしないでよ?」
「それは大丈夫。涼夏こそ、叩く快感とか覚えないでね?」
「それは約束できない」
 冗談めかしてそう言うが、目は真剣なままだった。やがて涼夏が何度か深呼吸して、意を決したように強く息を吐いた。体をひねるように手を引いて、手首をしならせて私の頬を手の平で打つ。
 まるでラケットを使う競技のプレイヤーのような動きだった。元バドミントン部だからわかる。たぶん、涼夏が想定したより強く入った。
 パシンと痛々しい音が響くと同時に、頬に強い痛みを感じた。時が止まったように静まり返る。じわじわと痛みがやってきて、頬を押さえると、生理的に溢れてきた涙が零れた。
「えっと、あの……私……」
 涼夏が親の顔色を窺う子供のような目で私を見上げた。
 頭がクラクラして思考が定まらない。何か喋ろうとしたら、口の中に痛みが走った。叩かれた衝撃で切れたようで、口の中に血の味が広がる。
 飲み込まずにいたら、だんだん鉄臭い唾液がいっぱいになってきた。怯えてる涼夏に一歩近づき、頬に手を当てて口を開かせると、溜まった唾液を全部流し込んだ。
「んっ、んん……!」
 涼夏が苦しそうに呻いてから、私の唾液を全部飲み込む。それから顔をしかめて私を見た。
「すごい血の味がした」
「口の中が切れた」
「ごめん。たぶん、千紗都が思ってたより強かったよね? ごめんね」
「私が頼んだんだからいい。顔は痛いけど、心の痛みはなくなった」
「私は心に深刻なダメージを負ったんだけど……」
 涼夏がしょんぼりとそう言って、私の手を取った。駅に向かって歩きながら、私はやれやれと首を振った。
「今、キスしてあげたじゃん」
「唾液を飲まされただけって感じだった」
「また一つ、私たち二人だけの秘密が増えたね」
 私がうっとりと微笑むと、涼夏は全力で首を振った。
「いや、別れたらすぐに絢音にメールする。こんなの、私一人で抱えたくない!」
「ちぇっ。まあ、絢音ならいいよ。帰宅部限定コンテンツってことで」
「ナッちゃんには内緒ってことね? 聞きたかったら帰宅部に入れって脅す」
 そう言って、涼夏がようやく笑顔を見せた。
 別れ際、せっかくなのでちゃんとしたキスをしたら、涼夏が見たこともないほど顔を赤くして、俯きながらせわしなく指を絡めた。途方もなく可愛い。
 電車に乗って一人になると、だんだん頬が痛くなってきた。明日腫れたら、学校を休もうか。奈都に追及されたら、私は事の発端から全部話してしまうかもしれない。奈都には甘えてしまう。
 口の中も痛い。しばらく口内炎に苦しむかもしれない。でも、怯えていた涼夏は可愛かったし、あの涼夏が私を叩いたという事実に、奇妙な喜びを覚える。何気なく唾液を飲ませたが、今思い出すと大胆なことをした。苦しそうに飲み込む涼夏の顔を思い出したら、胸がドキドキした。今さらだけど、私はあの子がとても好きだ。
 帰ったら両親に心配された。娘が遅くに頬を腫らして帰ってきたら、心配もするだろう。それだけが本当に余計だったが、悪くない一日だった。小さな氷のうの下で、頬がずきずきと熱を帯びる。その痛みさえ、なんだか心地良い。