■ Novels


再び巡るその日に向かって

10

 3日後、少女たちはマグダレイナの道端に大きな布を敷き、薬を売っていた。少女たちというのは文字通りの意味で、イェラトとヒューミスはいない。彼らは今、城でケールに剣を教わっていた。フィアンが、「セリシスを守る騎士として今の君たちでは不十分だ」と言い、旅に出るまでの間稽古するよう命じたのだ。もちろん彼らにも依存はなかったが、初日から目一杯絞られたらしく、セリシスとクリスが街から帰ったときには口を利く元気すら残っていなかった。
 少女たちは3日前からマグダレイナの市場近くの道で薬を売っている。市に店を出すには金が必要だったが、それは思いの外高く、今のシィスには手が出なかった。いや、もちろん支払うことは可能だったが、市場で店を開いても必ず売れる保証がなかったので、増える見込みのない所持金は、なるべく取っておきたいと考えたのだ。
 実際、薬は売れなかった。3日間、朝から夕方まで休まず売り続けたが、売れたのは傷薬が数瓶で、それは3日分の宿どころか、1日の食事代くらいにしかならなかった。
 もしもセリシスがいなければ、シィスはとうにへこたれていただろう。けれどセリシスはいつも明るく笑っていたし、彼女の笑顔を見ていると、シィスも何とかなるような気がするのだった。例えどんな状況でも常に物事を前向きに捉えるのは、セリシスの最大の長所だ。
「今日も売れなかったわ……」
 帰り道、薬を入れた袋を持って、とぼとぼ歩きながらシィスが呟いた。持っている袋の重さが朝と晩とでまったく変わっていないことが、シィスにはとても悲しく感じられた。夜は薬を調合するのが日課だが、それは今まで趣味でしていたことだ。いざこうして仕事になると、売れもしない薬を作るのは無駄だった。
 クリスは無表情でシィスを見上げて、それから明るい声で言った。
「傷薬が一瓶売れました」
「クリス……。でも、一瓶売れたくらいでどうなるの?」
 溜め息をついたシィスに、クリスは弾んだ声を出した。
「次に繋がります。シィスは、今日買ってくれたお客さんの後ろにいた人、わかりませんでしたか? あの人、初めてここに来た時に薬を買ってくれた人ですよ」
「え?」
 シィスは驚いて、思わず足を止めた。クリスにそう言われても、まったく覚えがなかった。それどころか、今日買っていってくれた客の顔すら覚えていない。
 セリシスがクリスの後を続けた。
「今あるお金のことは心配かも知れないけれど、のんびり地道に頑張れば、必ずお客さんが増えることが今日はっきりわかったわ。あの人はまた来てくれた。自分に必要なくても、必要としている人に勧めてくれた。それだけシィスの薬は良く効くのよ。自信を持って。いいものは必ず売れるわ」
 セリシスの言葉にシィスがどれだけ励まされたか。けれど、実際にセリシスの言ったことをじっくり考えたのは夜のことで、その時はまったく別のことを考えていた。セリシスもクリスと同じように、客のことを覚えていた。自分はひょっとして、客商売をする上で大切な何かが欠けているのではないか。
 シィスが思い切って二人に打ち明けると、クリスがいつものお姉さんぶった口調で答えた。
「商売は信頼第一です。だから、たとえもう二度と会わなさそうな人でも、この人は商品を買って自分を助けてくれたんだって、常に感謝の気持ちを持って接するべきです」
「シィスがそうしてないっていう意味じゃないのよ、クリスが言ったのは。ただ、今のシィスは採算のことしか頭にないわ。だから今日も、一瓶売れたのにまったく売れなかったように落ち込んでた。もちろん、今日の売上じゃ、この先やっていけないのはわかっているし、実際にお金が大切なのもわかってる。でも、大きなお金も小さなお金の積み重ねでしかないの。それを忘れないで」
 クリスの言葉では足りないと思って、セリシスがそう付け加えた。
 シィスはふと思い出した。客が薬を買ってくれたとき、自分は「ありがとうございました」としか言わなかった。けれど二人は「またお願いします」と頭を下げた。そういう細かい心遣いや気配りが、やがて大きな発展に繋がるのだろう。それはとても小さいから本当に大切なのかつい疑ってしまうが、セリシスたちは必ずそれが実を結ぶと信じている。
「私は、悲観的なのかも知れない……」
 顔を上げてそう呟くと、クリスが笑って言った。
「セリシスが能天気なだけです」
「ひ、ひどい!」
 もちろん、クリスが場を明るくするためにわざと言ったのがわかっていたから、セリシスは明るく笑い飛ばした。クリスも可笑しそうに声を立てたから、シィスもつられて笑った。
 それから先も、シィスの薬はあまり売れなかった。実際、傷薬などそうしょっちゅう必要になるものではないし、後置いてあるものと言ったら、風邪薬と頭痛薬、それに鎮痛剤、それくらいだった。もちろんシィスは病状に合わせて調合することができたが、こうして店で売るとなると必然的に汎用的なものになる。けれどこうしたものは常備薬であり、継続的に飲むものではない。売れないもの無理はなかった。
「私は、どこかのお医者様に売り込んだ方がいいのかも知れない……」
 そう呟いたシィスに、クリスは「そうですね」と相づちを打ったが、セリシスは何も言わなかった。シィスの言うことは恐らく正しいのだろう。けれど、少女はよく考えた末に言っているわけではなく、単に現状から逃げようとしているだけだ。だから、同意しかねたのだ。
 そんなシィスにも、とうとう運が巡ってきた。露店を出すようになってから一週間以上が過ぎたある日、一度来たことのある青年が血相を変えてやってきたのだ。曰く、友達が腹痛で苦しんでいるから看て欲しいというのだ。
 シィスは医者ではないので診断は無理だと断ったのだが、青年はそれでも構わないと言った。セリシスが店番を引き受けたので、シィスはクリスを伴って青年の友達を訪ねた。
 診断した結果、腹痛はアルコールが原因で、シィスは鎮痛剤と内臓の薬を彼に勧めた。即効性のその鎮痛剤がよく効いて、シィスは多大な感謝をされた。
 もちろんそれだけでも十分シィスには嬉しいことだったが、それはまだ運の始まりでしかなかった。その友達は城で働く兵士で、彼は自分にシィスを勧めてくれた青年から傷薬も良く効いたことを聞き、その話題を城の仲間に持ち出した。
 シィスが育ちの良い、綺麗な少女だというのも少なからず影響したのだろう。シィスの薬屋は兵士たちの間でじわじわと広まっていき、固定客が着き始めた。稽古や訓練で生傷の絶えない職業である。こうしてシィスの傷薬は売れるようになった。
 なお、これはセリシスがマグダレイナを経った後の話になるのだが、シィスの噂はやがてケールの耳に入り、フィアンにまで伝わった。そして彼女がセリシスがずっと店を手伝っていた少女だと知って、正式に王国の薬剤師として招き入れることになる。
 もっとも、それはまだまだ先の話で、セリシスが店を手伝うようになってから二週間経った帰り道、不意にセリシスがシィスに言った。
「シィス。私、そろそろここを出ようと思うの」
「……え?」
 シィスはまるで死刑宣告を受けたように硬直し、愕然となってセリシスを見た。いつかその日が来ることはわかっていたが、いつの間にかセリシスはずっと自分の側にいて、店を手伝ってくれるのだと思い込んでいたのだ。
「そ、そんな! 私、セリシスがいなかったら、どうしていいか……」
「シィス」
 セリシスはそっと少女を抱きしめた。
「最近はちゃんとお客さんも来てくれるようになったし、もう一人でも大丈夫でしょ?」
「ううん! だって、忙しくなってきたから、薬草を買いに行ってくれる人も欲しいし……。そうよ! じゃあ私、セリシスを雇うわ! ちゃんとお金も払うから……だから!」
「シィス……」
 自分の身体をまるで子供のように震えながらきつく抱きしめるシィスに、セリシスは弱った顔をした。それでもセリシスはここに留まるつもりはなかったので、シィスの耳元ではっきりと言った。
「私はシィスのこと、好きよ? でも、薬屋さんになるつもりはないし、このままここで一生を終わらせるつもりもないわ。私はまだまだ自分の可能性を試したいし、子供たちにもたくさんの世界を知って欲しい。私も、もっと勉強したい。だから、ね。ここにはまた必ず来るわ。何度も足を運ぶって約束するから」
「セリシス!」
 シィスは大きな声を上げて泣いた。セリシスは胸にもやもやしたものを感じたけれど、ぐっと飲み込んだ。自分も辛い。でも、いつかは来る別れだ。自分も我慢しなくてはいけないし、シィスにも我慢してもらわなくてはいけない。そして二人でそれぞれの道を歩き出すのだ。
「シィス、ありがとう。あなたと出会えて、私も色々なことを学んだわ。働くことも知ったし、誰かに感謝されることも知った。お金をもらうのが大変なんだってわかった。私、あなたには感謝の言葉もないわ」
 シィスは顔をセリシスの肩に押し付けたまま、大きく首を横に振った。
「そんな、そんな! 私はもっと、もっとずっといっぱい助けてもらった! セリシスに出会えて良かった。本当に、本当に……」
「ありがとう、シィス……」
 ついに堪え切れなくなって、セリシスも泣き出した。
 きつく抱き合いながら声を上げて泣いている二人を、クリスはじっと見つめていた。いつものセリシスよりもずっと大人びた瞳で、少女たちがやがて泣き止んで、固く握手を交わす姿も、じっと黙って見つめていた。
 西からの夕日がクリスに最後の影を与えて、街壁の向こうに沈んで行った。

←前のページへ 次のページへ→