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再び巡るその日に向かって

 もしも“遮光の壁”の話を事前にセリシスから聞かされていなかったら、子供たちは目の前に現れたそれに、ひどく肝を抜かしたことだろう。緩やかな丘陵の向こうに見えてきたのは、あまりにも巨大な壁だった。そこよりも随分遠くて高い位置から見ているにも関わらず、その壁に囲まれた中が見えないことから、それが如何に高いかがわかる。
 剣と武道の街と呼ばれるマグダレイナの街壁だった。その高さのあまり、朝の訪れを遅くし、夜の訪れを早くすることから、人々に皮肉を込めて“遮光の壁”と呼ばれている。けれど、戦時中はそれがマグダレイナを難攻不落の要塞とし、事実長い歴史の中で一度として落城したことがないのも、ひとえにその壁のおかげであった。
「ようやく街が見えてきたわ!」
 明るい声でそう言いながら、遠くに見える街を指差したセリシスの顔には、底知れぬ安堵と喜びが広がっていた。子供たちのおかげで随分睡眠を取らせてもらったために、なんとか倒れずに済んではいるが、決して体調が良くなったわけでもなければ、頭痛が引いたわけでもない。
 もっとも、街に着けば何か変わるというものでもなかったけれど、少なくとも街に居れば温かい布団で眠れるし、周囲に神経を張り巡らせることもない。子供たちだって目を離してもまず安全と言えるだろう。
 ようやく休める。
 それがセリシスの本音だった。
 けれどセリシスとは打って変わって、街を目にした途端、子供たちはその表情に緊張の色を孕ませた。すでに幾度となく繰り返されている、「果たして街に入れるか」という疑問に、いよいよ答えが出ようとしているからだ。
 街に入るには通行証が要る。幸いなことにセリシスは通行証を持ってきていた。リアスでの戦乱の日、彼女はスラムに行くために七家の貴族だけが持つリアスの「特別な通行証」を持って出た。そして、他の街でも認められている大陸標準の通行証を、彼女はいつもそのリアスの通行証と一緒に持ち歩いていた。だからあの日、セリシスは一切の私物を持ち出せなかったが、通行証と魔法を使うために必要な凝力石の二つだけは持ってこられたのだ。
「セリシス。もしも僕たちが街に入れなくても、セリシスだけでも入って、宿を取ってちゃんと休んで欲しい」
 不意にヒューミスが暗い声でそう言って、セリシスは驚いて振り返った。子供たちは皆一様に不安げな瞳で彼女を見つめていた。彼らは通行証を持っていない。原則として通行証を持たない者は街には入ることが出来ない。
「俺たちは、ほら、慣れてるからさ」
 イェラトができるだけ明るく笑い飛ばした。もちろん、リアスでのことを言っている。スラムで生まれ育った彼らは、リアスの街に入る権利を持っていなかったために、ずっと街壁を見上げて生きていたのだ。
 セリシスは大きく溜め息をついて、わざとらしく腰に手を当てた。
「三人とも、そんな顔をしない! 大丈夫、私を信じて。あなたたちは私の隣で、胸を張っていなさい。オドオドしてたら、できることもできなくなるわ?」
 原則はあくまで原則である。セリシスはわずかな例外を信じていたし、その例外を行使する策を持っていた。
 子供たちは納得こそしていなかったものの、自分たちにはどうすることもできなかったので、セリシスを信じることにした。元々あきらめていたことだ。やるだけやるのも悪くない。
「わかったよ」
 イェラトは力強く頷いて、もう俯かなかった。セリシスとの約束だ。少女はにっこりと笑ってから、子供たちを伴って街の方へ歩き出した。
 “遮光の壁”は、その下まで来るとまるで天まで聳えているように思えた。大きな門には門兵が二人立っていて、仕事とは関係なさそうな話に興じている。平和な世の中だし、この暑さだ。少々怠慢になるのも仕方ないだろう。
 セリシスは門の前まで行くと、毅然とした態度で通行証を見せた。
「リアスのユークラット家のセリシスです」
 ユークラット家の知名度はともかく、リアスが貴族政であることは有名だったし、セリシスが一緒に見せたリアスの通行証からも、彼女が貴族であるのは明らかだった。服だって、争乱と長旅で汚れてはいたが上質のものだ。
 兵士たちは隣国の姫に失礼があってはいけないと態度を改め、彼女に敬礼をした。
「通ってもよろしいですね?」
 セリシスはなるべく絶妙なタイミングでそう切り出したが、さすがにそれで頷くほど教育されていないわけではなかった。兵士の一人が申し訳なさそうにしながらも、一歩彼女の進路をはばむように進んで口を開いた。
「失礼ですが、お連れの方々の通行証を拝見できますか? 通行証のない者は、たとえ貴族の従者であってもお通しするわけには参りません」
 当然の言葉であった。ヒューミスは思わず怯えたように顔を強張らせたが、クリスは顔色を一切変えず、イェラトに至ってはむしろ相手を睨みつけ、あたかも自分は街に入る当然権利を持っていると言わんばかりに胸を張った。
「通行証はある事情で持ってこられませんでした」
 セリシスはそう切り出した。
「ある事情?」
 兵士たちは首をひねって少女を見た。もしもセリシスの態度がおどおどしたものであったら、恐らく嘘だと気付かれただろうが、セリシスはこの局面にあってなお悠然と構えていた。
「それはお話することはできません。貴族の私がこのような格好でマグダレイナまで旅をしてきたことから、察していただくしかありません」
 兵士たちは困ったように顔を見合わせた。規則は規則である。たとえセリシスに詳しく話してもらったところで、通行証のない者は通すことができない。
 もちろんセリシスとて、同情を誘うだけで通してもらおうなどとは考えてなかった。彼女の切り札は別にあったのだ。
 セリシスは一度大きく息を吸ってから、一言ずつはっきりと言った。
「もちろん、それで通せないのはわかっています。ですから、フィアン様をお呼びください。私たちの素性はフィアン様が保証してくださいます。もっとも、それまであなた方に、フィアン様の知り合いをここで足止めしておく勇気がおありでしたら、ですけれども」
 そう言って不敵な笑みを浮かべたセリシスを見て、子供たちは驚いた。あの世間知らずで純朴な少女が、まさかこんな顔をしてこのような大胆な駆け引きができるなどとは思ってもなかったのだ。
 セリシスの言葉に、兵士たちは怯えたように一歩後ずさった。
「フィ、フィアン様の……」
 無理もない。セリシスが切り札にしたのはマグダレイナの第二王子だった。目の前の少女は貴族なので王子と知り合いであっても不思議ではないし、貴族の娘がこのような形で街を訪れるのも、人に言えないような「ある事情」があるならば頷ける。
 兵士たちはセリシスの言葉に踏み込んではいけない領域を感じ取り、すぐに道を空けた。
「フィアン様のお知り合いとあれば、お通ししないわけには参りません。私どもは、セリシス様を信頼いたします」
 そう言って深く頭を下げた二人を見ながら、子供たちは改めてセリシスは偉いのだと思った。昔であれば、それでセリシスとの間に、まるでリアスの街壁のような絶対に越えられない壁を感じたものだが、今は違う。子供たちはそんな偉くて強いセリシスと一緒にいることを誇りに思い、大いに胸を張って表情を綻ばせた。
「ありがとう。それでは通していただきます」
 セリシスは最後まで毅然として、子供たちとともに門をくぐった。そしてそのまま兵士たちから見えないところまで歩くと、急に肩を落として大きく息を吐き、少しおどけた感じでイェラトに寄りかかった。
「はぁ、疲れたー」
「セ、セリシス」
 イェラトは思わず赤くなりながらセリシスの身体を支えた。それから同じように肩の力を抜いて、大きな声で笑った。改めて、自分たちが門をくぐることが出来たことを思い出したのだ。
 子供たちはずっとリアスのスラムに住み、リアスの街壁の中に入ったことがなかった。門をくぐって「街」に入ったのは初めてだったのだ。ヒューミスは思わず涙ぐみ、思わずセリシスに礼を言った。
 ふとクリスが表情を改めて、いつものお姉さん風を吹かせた様子でセリシスを見上げた。
「それにしても、まさかセリシスが王子様の名前を持ち出すなんて思いませんでした。もし本当に呼ばれたらどうするつもりだったの?」
 フィアンがマグダレイナの王子だというのはセリシスから聞いていた。クリスには「王子」などというものは、自分とはひどくかけ離れた存在であり、そんな一般庶民の自分の身近にいるセリシスが、フィアンと知り合いであるとは到底考えられなかったのだ。
 ヒューミスもイェラトも同じで、セリシスははったりをかましたとばかり思っていた。
 けれど、それは誤りだった。三人はセリシスがなんとも大胆なことをしたと考え、感心したようだが、セリシスは本当にフィアンと知り合いだったのだ。
 セリシスはにっこり笑ってからそれを説明しようとしたのだが、できなかった。
「実はね、フィアン王子とは……」
 言いかけた途端、セリシスは急に眩暈がして、そのまま崩れ落ちた。
「セリシス!」
 イェラトがすぐにその身体を支えようとしたが、所詮は子供の力である。せいぜいクッションになるのが精一杯で、もつれ合うようにして二人は地面に倒れ込んだ。
「セリシス!」
 悲鳴じみた声を上げながらヒューミスが見ると、セリシスは顔を赤くして荒々しく息をしていた。額には流れ出すほどの汗が浮かんでいる。ずっと体調が悪いのを我慢していたのだ。ようやく街に入ることができた安心感のために、一気に疲れが出たのだろう。
 三人はすぐに顔を見合わせてから、大きく頷き合った。
「すぐにセリシスを宿に!」

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