セリシスは随分落ち着いた呼吸になってきたものの、依然昏々と眠り続けており、ひょっとしたらこのまま目を覚まさないのではないかと思われた。クリスはこの右も左もわからない街の中で、一人ぼっちになってしまったような寂しさを覚えて、思わず涙を零した。
「イェラト、ヒューミス……早く帰ってきてよ……」
何度も二人を探しに行こうと考えたが、セリシスをこのままにしておくわけにもいかず、前にも後ろにも行けないまま、クリスはただ待っていた。一体二人はどこへ行ってしまったのか。どこで何をしているのか。クリスは先程から悪いことばかりを考えていた。
結局、ヒューミスが帰ってきたのは太陽が壁の向こうに沈み、街の喧騒が収まってからのことだった。
ドアが開き、ヒューミスが顔を出した瞬間、クリスが張り詰めていた何かが切れたように立ち上がり、思わず彼に駆け寄った。安堵に気が緩み、目から涙がボロボロ零れて、クリスはそのまま彼に抱きつきそうになった。
けれど、結局そうはしなかった。ドアを閉め、クリスを見つめるヒューミスは、もっと絶望的な瞳をしていたから。
「どう……したの?」
こんなとき、相手のことを気にせずに泣けたらどれだけ楽だろうと、クリスは思った。けれど彼女は、ずっと彼らのお姉さんだったし、セリシスがいない今、自分がしっかりしなくてはと無意識にそう考えて、心配そうにヒューミスの肩に手を乗せた。
ヒューミスはクリスに触れられると、堰を切ったように泣き出した。そして泣きながら、自分たちがしたことと、イェラトが捕まってしまったこと、そして自分だけ逃げ帰ってきて、初めは外で泣いていたけれど、結局どうすることも出来ずにここに戻ってきたことを話した。
その話を聞いて、クリスは目を見開いてしばらく震えていたが、その内ぐっとヒューミスを抱きしめて泣き出した。
「そんな……。私、どうすればいいの? 私たち、どうなっちゃうの?」
「ごめん、ごめんねクリス。ごめん……」
二人は無力に打ち拉がれて泣き続けた。子供の喧嘩とは違うのだ。盗みを働き、国に捕縛されてしまった仲間を、一体自分たちがどう助け出せるというのだ。それに、もうじき警備兵が押し寄せてきて、自分たちまで捕まってしまうかも知れない。クリスは恐怖に震えた。
「セリシスを起こそう。もうそれしかないわ。急がないと……急いで伝えないと、取り返しがつかなくなる」
ヒューミスは黙って頷いた。
二人に起こされたとき、セリシスはまるで白い靄の中にいるような錯覚を覚えた。意識ははっきりしているが、頭はぼーっとしていて、ものがよく見えない。だんだん視力が回復してくると、身体が妙にだれていることに気が付いた。頭の痛みは随分引いたようだが、疲れはほとんど取れてなかった。
セリシスは一度辺りを見回し、自分が倒れたことと、それから随分時間が経っていることを知った。次に二人の子供たちを見て、何か、あまり良くないことが起きたことを察知した。
「どうしたの? 二人とも。大丈夫だから泣かないで」
セリシスはふらふらと起き上がると、優しく二人を胸に抱き入れた。その温もりがあまりにも優しかったから、クリスとヒューミスはもう一度大きな声で泣き出した。そして勢いに任せて、自分たちにはもう、明日宿に泊まる金すらないことと、先程起きたことのすべてを話した。
セリシスはクリスよりだいぶ大人だったから、その話を聞いても泣いたりしなかった。もちろん、胸は緊張のあまり速く打っていたし、どうしたらいいかすぐにはわからなかったけれど、とにかくここで泣いても、物事は悪くなるばかりで進展はないと理性的に考えたのだ。
「大丈夫よ。イェラトはきっと助かるわ。泣いていても仕方ないでしょ? ほら、みんなでどうするか考えよ?」
優しく髪を撫でながら言うと、二人は涙を拭ってセリシスを見上げ、何度も頷いた。その時、突然ドアがノックされて、三人は思わず身をすくめた。ヒューミスは「警備兵だ……」と泣きそうになりながら呟き、クリスはすっかり蒼ざめてセリシスの服を握って震えている。
セリシスは自分も足が震えるのを感じたけれど、それでも頑張って身を起こし、二人をかばうように立った。
「どうぞ」
大きな声で言うと、静かにドアが開かれた。向こうにいたのは、先程ヒューミスが話していた少女だった。手に先程まではなかった大きな袋を持っている。
「こんばんは。初めまして、シィスと言います」
シィスは努めて明るく笑って見せたが、もちろんそれで安心できるほど子供たちは楽天家ではなかった。
「あの人、さっき話してた人だよ……」
ヒューミスが小声で囁くと、クリスが固く目を閉じて首を振った。
「私たちを捕まえに来たのかしら……」
セリシスはそんな可哀想な子供たちをちらりと見てから、真っ直ぐシィスを見据えて言った。
「初めまして、セリシスです。早速ですが、一体何のご用ですか?」
明らかに敵対するような眼差しだったが、シィスは気にしなかった。いや、それが彼女が子供たちを守るのに必死だからだとわかったからだ。目の前の少女は、本当はとても心優しい人なのだ。シィスは彼女の持つ雰囲気でそれを理解していた。
「そんなに警戒しないで。さっきの子が、セリシスが病気だって言ってたから、私は何か力になれないかと思って来たのよ」
「そ、そんなの信じられるかよ!」
思わずヒューミスはそう叫んで、勢い良く立ち上がった。そしてセリシスの前に立ち、彼女をかばうようにして声を張り上げた。
「そんなふうに、まったく見ず知らずの僕たちに優しくしようって思うなら、なんでイェラトを助けてくれなかったんだ!? 僕はお前なんか信じない!」
クリスもそれに同感だったから、やはり気力を振り絞って立ち上がり、蒼ざめたままセリシスの前に立って手を広げた。例え自分たちがどうなろうとも、セリシスさえいれば何とかなる。倒れる順番は、セリシスが最後でなければならない。子供たちはそう思っていた。
シィスはヒューミスの言葉にあからさまに動揺して、それから悲しそうにうつむいた。そのまましばらく無言で項垂れていたが、やがて肩を震わせて消え入りそうな声で言った。
「ご、ごめんなさい……」
ぽたりと床に涙が落ちて、セリシスは表情を曇らせた。子供たちは、あのクリスですらそんなシィスを見ても拳を握ったまま動かなかったが、セリシスは二人をそっとどけるとシィスに近付き、震える肩にそっと触れた。
「泣かないで。ありがとう、シィス。あなたは私のために何をしてくれるの?」
はっと顔を上げたシィスは、まるで天使を前にしたような目でセリシスを見た。子供たちはセリシスが少女に優しくしたから、もう睨みつけたりはしなかった。セリシスが信じるものを自分たちも信じる。彼らにとってセリシスは絶対だったのだ。
シィスは一度涙を拭うと、慌てて袋を開けて中から包みを取り出した。
「あの、え、栄養を取ってもらおうと思って……」
包みの中にはサンドイッチが入っていた。シィスはそれをセリシスに押し付けるように手渡すと、次に袋から一本の小さな瓶を取り出した。瓶には深い緑色の液体が入っていた。
「それからこれ、私が作った薬です」
「あなたが作ったの?」
セリシスはそれを受け取ると、驚いた顔で少女を見た。シィスは何度も頷いてから、ようやく少しだけ笑った。
「私、薬師なんです。この街で薬屋を開こうと思って……いえ、とにかくそれはよく効きますから。もし良かったらもらってください!」
セリシスはしばらく薬を見つめていたが、やがて小さく首を振った。
「これは受け取れないわ。私には、あなたに優しくしてもらう理由がないもの。それに、イェラトがあなたに迷惑をかけて、むしろ私たちはあなたにお詫びをしなくてはいけないわ」
その言葉に、シィスは驚いた顔をした。まさか病気で、しかも盗みを働かなくてはならないほど貧しい少女に、そんなことを言われるとは思ってなかったのだ。
シィスは返された薬を、もう一度少女の方に押しやった。
「いいえ。私は薬師で、あなたは病人です。それだけで十分、助ける理由になります」
シィスの瞳は決然としており、絶対に引かないことが表情から見て取れた。セリシスは彼女の言葉遣いや物腰から、シィスが自分と同じくらい良い家の育ちであることを理解した。自分もそうだが、こういう少女はどれだけ優しくても、心の深いところでは自分の思い通りにならないと気が済まないものだ。
「わかったわ。ありがとう、シィス。でも、このお礼はきっとさせてもらうわね」
「ええ」
シィスは安心したように息をついた。それから彼女は自分の今泊まっている宿の場所を教えてから、もう一度深くお辞儀をした。
「あの子のことは、本当にごめんなさい」
ヒューミスはイェラトを思い出して思わず拳を握ったが、セリシスは「気にしないで」と笑った。
「イェラトは悪いことをしたのだから、捕まっても仕方ないわ。それに、今度あなたと会うときには、イェラトも一緒にいるから大丈夫よ」
シィスはその言葉に安心したように微笑んだ。そしてもう一度頭を下げると、晴れやかな顔のまま部屋を出て行った。
けれど、子供たちはシィスより敏感だったから、セリシスの言った言葉の本当の意味を理解していた。
今度会うときにはイェラトも一緒にいる。けれど、イェラトが一緒にいないなら、セリシスはもうシィスと会うことはない。
一体セリシスはどうするつもりなんだろう。子供たちは表情を曇らせたが、セリシスは明るく笑って見せると、テーブルにサンドイッチを広げた。
「さぁ、せっかくだからいただきましょう。これを食べて薬を飲んで、少し休んだらイェラトを助けに行くわよ」
そう言いながら、セリシスはサンドイッチを手に取った。なるようにしかならない。セリシスは吹っ切れた表情をしていたけれど、子供たちはとてもものを食べるような気分にはなれなかった。
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