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再び巡るその日に向かって

 気が付くと辺りは真っ暗だった。イェラトは目を開けて、ゆっくりと身体を起こした。けれど、すぐに全身に痛みを感じて、再び身を横たえる。大きく息を吐いてから、冷たい石の上に寝転がったまま首だけで辺りを見回した。三方を壁に囲まれ、残る一方には鉄格子がはめられている。牢屋にいるのは明らかだ。
 イェラトはだんだん気を失う前のことを思い出してきた。あのゲルスという男に詰め所に連れ込まれてから、イェラトは城に連れて来られた。その間に何度も逃げ出そうとした結果、ついに警備兵たちを怒らせ、さんざん暴行を加えられてこうして牢屋に放り込まれたのだ。
「俺、これからどうなるんだろ……。セリシスは、どうしてるだろう……」
 じわりと涙が滲んで、イェラトはすぐにそれを拭った。壁には小さな通気孔が空けられていたが、とても人が通れる大きさではない。それは低い位置にあったので身をかがめて覗いてみたが、向こう側にある草が見えただけで他には何も見えなかった。
 イェラトは溜め息をついて、座ったまま壁にもたれた。どうやらヒューミスは捕まらなかったらしい。それはせめてもの救いだったが、それで自分が助かるわけではない。とは言え、極悪人ですら抜け出すことのできない王国の牢屋から、自分のような無力な子供が抜け出せるはずがない。
 一体自分はどんな刑を受けるのだろう。本当に腕を切り落とされるのか、それともまだ子供だから助けてもらえるのか。根拠のない楽観は好きではなかったが、悲観して落ち込むよりはましだと、イェラトは自分が軽い刑で解放してもらえることを想像して気持ちを落ち着けてみた。
 牢屋はしんと静まり返っていた。どこからともなく寝息やいびきが聞こえてくるので、他の罪人もいるようだが、少なくとも声は聞こえない。牢屋とはそういうものなのか、それともイェラトの考えているより時間が遅いのか。
 とにかく、その沈黙はイェラトの心をだんだん弱らせるのに十分だった。彼は再び横になると、畳んで置いてあるペラペラの布団を引っつかみ、それにくるまって目を閉じた。何も出来ないなら朝を待つしかない。そう思ったのだが、それで寝られるほどイェラトは神経の太い少年ではなかった。
 布団にもぐりこみ、ガタガタ震えながらイェラトは泣いていた。人前では滅多に涙を見せないが、まだ12の子供なのだ。
「セリシス、助けて……」
 また少女を頼っている自分を情けなく思ったが、こんな状況だ。仕方ないだろう。
 セリシスはきっと来てくれる。それはまったく根拠のない、ただの願望でしかなかったが、イェラトはそれを疑わなかった。あの少女は、これまで自分たちの期待を裏切ったことがない。だからきっと助けに来てくれる。
 何時間も何時間も、イェラトは一心に祈り続けた。そしていつの間に眠ってしまったのか、自分を呼ぶ優しい声で目を覚ました。
「イェラト」
「セ、セリ……」
 思わず大声を出しかけたイェラトの口を慌てて塞いで、セリシスはにっこり笑った。紛れもなく、イェラトが望んでいたセリシスだった。ヒューミスとクリスはいないらしい。
「ど、どうやって……?」
 囁くように尋ねたイェラトに、セリシスは小さく笑って答えた。
「私は魔法使いよ? 頑張ればなんでもできるわ」
 もちろん、魔法には限界がある。例えば眠らせたり息をできなくするなどと言った、相手に直接作用するような魔法はない。それに、開錠の魔法や、身体を透明にする魔法、壁を擦り抜ける魔法などと言ったものも存在しない。少なくともイェラトはそう考えていた。
 実際それは外れではなかった。自分の描いたイメージを魔法に変えるウィルシャ系古代魔法というものに限定すれば。けれど、魔法にはもう一つ、ジェリス系魔術というものがある。それは古代の大魔法使いウィルシャの息子、天才ジェリスが作り上げたもので、魔法陣と発動呪句によって作用し、ウィルシャ系古代魔法にはできない様々なことを可能にした。セリシスは魔力こそ弱かったものの、このジェリス系魔術も使うことができたのだ。
「とにかく、ここを出ましょう。脱獄は罪人になるけど、考えてもしょうがないわ。私には、イェラトが刑を受けるのを黙って見ていることなんてできない。たとえ追われてもここから逃げましょう!」
「セリシス……」
 イェラトは思わずセリシスを抱きしめた。例え自分が罪人になってでも助けようとしてくれるこの少女が、心から愛しくなったのだ。セリシスはそんなイェラトの頭をしばらく撫でていたが、やがてそっと身体を離して立ち上がり、神妙な面持ちで説明を始めた。
「イェラト、よく聞いてね。これから使うのは、身体を小さくする魔法よ。この穴を通り抜けることができるわ」
「身体を小さく……」
 イェラトは先程覗き込んだ通気孔を見て、思わず首を振った。とても信じられなかったが、実際にセリシスがこうしてここにいるのだ。セリシスは大きく頷いてから続けた。
「注意しなくてはいけないのは、この魔法は持続時間がとても短いのよ。だから、小さくなったら全速力でこの穴を潜り抜けて。急がないと、途中で身体が大きくなって潰されちゃうわ」
 イェラトは思わず息を飲み、それから何度も頷いた。
「向こうに出たら、夜陰に乗じて外に出るわね。城壁は……リアスに入った時と同じようにして出る。外にはヒューミスとクリスがいるわ」
 少し言い淀んだが、それでもセリシスははっきりとそう説明した。リアスに入った時というのは、セリシスがリアスを追われることとなった争乱の日のことで、あの日セリシスは魔法を使ってヒューミスと、スラムの子供の一人であるウェルスと一緒に街に入った。あの一件は彼らの中で半ば禁句として扱われていたが、説明を簡潔にするために敢えてセリシスはその話を持ち出した。
 イェラトは一瞬気まずそうに目を逸らせたが、セリシスに他意がないことはわかっていたので、すぐに顔を上げて頷いた。今は過去を思い返している場合ではないし、あれはもう終わったことだ。確かに自分たちはセリシスを利用したが、セリシスはその理由を理解してくれたし、許してくれた。もう気に病むことはない。
「じゃあ、やるね」
 セリシスはポケットからチョークを取り出すと、長い時間をかけて床に魔法陣を描き上げた。大体人が二人入れる程度の大きさだ。セリシスはその中にイェラトを手招きした。
「ジェリス系魔術は、魔法陣にいるときにだけ魔法が作用するの。だから、ここから出た瞬間、私たちの身体は元に戻り始めるわ。でも安心して。イェラトより大きい私がこうしてここに来られたんだから」
 イェラトは何度も頷いて見せた。もう覚悟は決めた。命懸けというなら、リアスの争乱の日の方が遥かに命懸けだった。実際あの日は剣を持って戦い、殺されかけ、そして殺した。
 セリシスは目を閉じると一語一語噛みしめるように言った。

『ツァイト ツァイト エレグ マライテ……
 世の果てに住む小さき精よ
 我らにその御力を貸し給え
 この身と我に属する物を
 偉大なる貴方の力を以って
 小さき姿に変え給え……』

 途端に、イェラトは見ている壁が急速に上昇するのを感じた。もちろん自分の身が縮んでいるのだが、一瞬理解できなかった。まるで身体が粉々に分解され、また結合するのを急スピードで何度も繰り返されているようなおぞましい感覚がして、イェラトは吐き気を催した。固く目を閉じて我慢していると、やがてその感覚がなくなった。
 目を開けると、先程までと変わらない大きさのセリシスがいたが、すぐにそれは、彼女も縮んだからだとわかった。目の前にはマグダレイナに入る時に見た“遮光の壁”のごとく巨大な壁があり、その壁にぽっかりと人が余裕で通れるくらいの穴が空いていた。もちろん、先程の通気孔だ。イェラトはそれで、自分がどれくらいの大きさになったかを理解した。
「さあ、行くわよ!」
 言うが早いか、セリシスは駆け出した。イェラトもすぐにそれに続く。魔法陣を出た瞬間、またあの忌まわしい感覚が蘇り、イェラトは思わず倒れそうになった。今度は身体が伸び始めたのだ。
 顔を上げると、セリシスはすでにだいぶ先を行っていた。イェラトは慌てた。遅れてはいけない。それは死に直結する。
 無我夢中で駆けた。まるで波の強い海の上を走っているようで、自分がちゃんと進んでいるのかどうかすらわからなかった。
 しばらく駆けると、肩が壁に擦れて驚いて目を開けた。穴の出口が狭まっている。イェラトはそう思ったが、すぐに自分の身体が大きくなっていることを思い出して冷や汗をかいた。このままではこの穴に挟まれ、そしてぐちゃぐちゃに潰れてしまうだろう。
「セリシスッ!」
 イェラトは悲痛な叫びを洩らした。少女はすでに穴から出ていたが、イェラトを見て表情を険しくした。それでも彼女にできることは何もなかった。
「イェラト、頑張って! もう少しよ! 身体をできるだけ小さくして走って!」
 セリシスは自分の置かれている状況を忘れて叫んだ。
 イェラトはできる限り肩をすぼめて走った。ずりずりと肩が壁に擦り、痛みが走ったが気にしなかった。たとえ肉が削げても、脱臼しても、ここで挟まって無残に圧死するよりはましだ。
 ようやくの思いで、イェラトは穴から外に転がり出た。芝の上に寝転がり、ぜぇぜぇと荒い息をしながら、イェラトは精一杯皮肉を言った。
「こ、この魔法は、使えないな……」
 セリシスは小さく笑った。
「使えたじゃない」
 実際、実用的ではなかった。小さいままでいられるのは魔法陣の中だけだったし、すぐに気持ちが悪くなる。その上魔法陣は複雑だし、もしも事前にそう言った色々なことを知っていたら、セリシスもこの魔法を習得してはいなかっただろう。けれど、とにかく少女がジェリスの魔術書を読んで、興味本位で覚えたこの魔法は役に立ったのだ。
「さあ、行きましょう!」
 そう言って立ち上がりかけたセリシスだったが、すぐにその表情を険しくして足を止めた。イェラトもすぐにその理由に気が付いた。向こうから人が駆けてくるのだ。しかも大声を上げながら。
「み、見つかった……」
 セリシスは蒼ざめた。

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