城から一時間ほど歩くと、教えられた場所に辿り着いた。セリシスはてっきり一軒家に行き着くと思っていたのだが、そこには大きな宿が建っていた。一階はカフェになっている。恐らく夜は酒場になるのだろうが、なかなか綺麗で、今もご婦人方が談笑しているのが窓から見えた。
「あの子はよくこの街に来るけど、この街に住んでるわけじゃないって言ってたよ」
ヒューミスが少女との会話を思い出しながらそう言った。確かにシィスは旅装束だったし、場所を教わったとき自分が宿に泊まっていることも言っていた気がする。セリシスは自分が勘違いしていたことをすぐに認めた。
宿屋の主人に部屋を聞き、セリシスは少女の部屋のドアをノックした。名前を名乗ると、中からシィスのか細い声がした。
「セ、セリシス? 開いてるわ……」
セリシスは一度子供たちと顔を見合わせ、それからゆっくりとドアを開けた。シィスはベッドの縁に腰かけて項垂れていた。そしてセリシスを見るや否や勢いよく立ち上がり、その瞳からボロボロと涙を零して彼女にすがりついた。
「セリシス! わ、私……私……」
セリシスはひどく驚いたが、何とか気を持ち直して優しくシィスの髪を撫でてやった。撫でながら、昨日フィアンの胸で泣いていた自分が、今日はこうして誰かに泣きつかれているのが可笑しくて、シィスにわからないように小さく微笑んだ。
「どうしたの? シィス。泣いていちゃわからないわ」
部屋にはシィスしかいなかった。もっとも、二人部屋ではないので、元々イェラトを捕まえた大男とは一緒に泊まってなかったにしろ、彼と何かあった可能性は高い。
シィスはしばらく泣いてから、ようやく落ち着いて身体を離した。それからイェラトに目を遣って、彼が足を怪我していることに気が付いた。
「ああ、ごめんね。私のせいで、怪我を……」
「別にお前のせいじゃない」
そっけなくイェラトが言った。敵意を剥き出しにしているわけではない。彼は元々こういう喋り方なのだ。シィスはそんなことは知らなかったが、それでも気にすることなく急いで薬を用意すると、彼に治療して良いか尋ねた。
「シィスの薬は良く効くわ」
セリシスにまでそう言われては、イェラトに断れるはずがない。彼はちょっと渋ったが、相手は医者だと納得させてズボンを脱いだ。シィスは怪我の様子を見てから、ヘラに薬を乗せて丁寧に彼の太股に塗った。
手当てを終えると、シィスもだいぶ落ち着いてきて、彼らは床の上に円を描くように座って話した。
「私は、ラウェアのディンビル商会に生まれたの」
「ラウェア?」
首を傾げたヒューミスに、セリシスは「南の方にある街よ」と答えた。ディンビル商会は初耳だったが、それなりに大きい商会なのだろう。シィスはディンビル家の三女で、16歳だと言う。
「うちは毛皮を扱う商売をしてるんだけど、私は小さい時から薬学に興味があって。でも父も母も認めてくれなかった」
それでシィスは独学で薬を勉強し、時々薬草を買って自ら調合もした。セリシスの魔法と同じようなものだ。セリシスは10歳になる少し前に、偶然家の書庫にジェリスの魔術書を見つけ、試しに簡単な魔法陣を描いてみた。そして自分に魔力があることを知り、密かに勉強を始めたのだ。セリシスはシィスの話を聞きながら、そんな幼い頃の自分を思い出して微笑んだ。
シィスの場合はセリシスとは違い、両親も姉妹もみんな彼女が薬の勉強にのめり込んでいるのを知っていた。それでとうとう言うことを聞かない娘に腹を立てた両親が、見聞を広める名目で娘を家から追い出したのだ。
「勘当されたの?」
クリスが眉をひそめると、シィスは首を横に振った。
「ううん。父は私にゲルスを付けて、定期的にお金も送ってくれたわ。父はそれで私が世間の厳しさを知って、薬学をあきらめて家に戻ってくることを望んでいたのよ。でも、私はそうはならなかった」
旅に出たシィスは、各地を回り、ますます薬草の知識を付けていった。何日も森の中で野宿するのも厭わなかったし、薬を求めて山に登ったこともあった。シィスは旅の間、一切働いてはいなかった。どれだけ父親の意向に反することを続けていても、父親は彼女に金を与え続けたからだ。
「たぶん、世間体とか、そういうことを気にしたのね。でも、もうそのお金はなくなってしまった」
「どうして?」
ヒューミスが心配そうに尋ねると、シィスは溢れてきた涙を拭ってから、無理に笑って見せた。
「ゲルスと喧嘩したからよ。ゲルスは私の召使いだけれど、実質は父がそこにいるようなものだったわ。だから私は彼には逆らえなかったし、私を生かすも殺すも彼次第だったのよ。私は彼が好きでなかったけど、一緒にいるしかなかったの」
けれど、セリシスと初めて会った日、つまりイェラトが捕まった日、シィスは容赦なくイェラトを詰め所に突き出したゲルスに腹が立った。それで感情的になり、自分にはもうゲルスは必要ない、ラウェアに帰ってくれと言ったのだ。
「シィス様。それがどういう意味がわかってますね?」
念を押すように言ったゲルスの目がギラリと光った。もしもシィスがもう少し大人だったら、あるいはその決断をしばらく遅らせたかも知れない。例えば商売を始めて軌道に乗るまでとか、どこか身を落ち着ける場所を見つけるまでとか。けれど彼女には彼の言動が許せなかったから、「わかっている。構わないから出て行ってくれ」とはっきり言ってしまった。
それから数日経って、シィスは途方に暮れていた。そこにこうしてセリシスが尋ねてきたのだ。
セリシスはまたしくしくと泣き出したシィスを見ながら、ふと初めて会った日のことを思い出して言った。
「シィス。確かあなた、この街で薬屋を開きたいって言ってたよね? あれは?」
シィスは大きく頷いて顔を上げた。
「そのつもりです。でした。いいえ、よくわからないの。店を開くと言っても、どうすればいいのかわからないし、家もないし、こうして宿に泊まっているだけでお金はどんどんなくなっていく。一人じゃ薬草を取りに行くことも難しいし……」
もちろん、セリシスにもわからなかった。セリシスはシィスではないし、店も開いたことがない。家を持つというのがどういうことかもよくわかっていなかった。自分たちのリーダーが困った顔をするのを見て、イェラトが口を挟んだ。
「とにかく、明日にでも早速市に行って、今ある薬を売ってみたらどうだ? 良く効くんだろ? 初めは売れなくても、少しでも売れれば本当に効く薬なら必ず客は定着してくれる。そうなるかならないかはお前の実力だからな。ダメだったら実力がなかったんだってあきらめな」
「私は、自分の薬には絶対の自信を持ってるわ!」
思わず声を荒げたシィスに、イェラトは笑って言った。
「なら、こんなところでうじうじしててもしょうがないだろ? さっさと飛び込めよ」
「イェラト……」
シィスは込み上げてきた涙をぐっと抑えて何度も頷いた。結局自分には勇気が足りなかったのだ。ゲルスがいたとき積極的に何でもやってみせたのは、いざというとき彼が守ってくれるのがわかっていたからで、実際こうして一人になってしまったら、何一つとしてする勇気がない。
「わかったわ、イェラト。ありがとう」
やはり恐怖があるのか、まだかすかに震えながら、それでも強く頷いてみせるシィスを見て、ヒューミスがセリシスに言った。
「ねえ、セリシス。良かったら僕たちも手伝ってあげようよ」
「えっ……?」
ヒューミスの提案が意外だったのか、シィスは驚いて顔を上げた。セリシスはにっこり笑って頷いた。
「もちろんそのつもりよ」
「で、でもあなたたちは……」
シィスは失礼なことを言いかけて、すぐに口を噤んだ。彼らが盗みを働かなくてはならないほど金がないのを思い出したのだ。そんな状況で、彼らは他人の手助けをしている余裕などあるのだろうか。
セリシスは「大丈夫」と笑った。
「私たち、今お城にいるの。さすがにあなたのことをお願いすることはできないけど、私たちの心配はしなくていいから」
「お、お城っ!?」
驚いて素っ頓狂な声を上げたシィスに、イェラトが胸を張って言った。
「セリシスはリアスの貴族なんだ! 偉いんだぞ?」
「元、ね。今はあなたと同じ、親に勘当されて食い扶持もない、ただの貧乏な旅人よ」
笑顔で手を差し出したセリシスを、シィスはやはり尊敬する眼差しで見つめていた。そして慌てて手を握ると、何か言おうと口をぱくぱくさせた。けれど、感情が言葉にならないらしい。
セリシスは少女を安心させるように、もう一度にっこり笑った。
「これからよろしくね、シィス」
シィスはやはり言葉もなく、何度も大きく頷くだけだった。
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