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再び巡るその日に向かって

エピローグ

 陽射しは強かったが気温はあまり高くなく、時折涼しい風が吹き抜けて行った。街は朝から賑わい、市場の喧騒は隣家の窓を揺らすほどだった。往来にはこれから仕事を始める人々が行き交い、店は開き、やがて聖堂から朝を告げる鐘が鳴り響いた。
 シィスはいつものように市場へと続く大通りにやってきて、そこに布を広げた。ここは合法的に無料で使用してよいスペースになっており、他にもたくさんの行商人が店を開いていた。けれど、そのことは市民も理解していたので、やはり安心なものを求めて自然と市場へ流れていくのだ。
 シィスは袋から出した薬を丁寧に並べていった。昨夜薬草を補充したので、薬は豊富にある。遅くまで調合していたから少し寝不足だが、体調は悪くなかった。にも関わらず時折溜め息をついて肩を落とすのは、もちろんセリシスがいないからだった。
「セリシス、今頃もう街を出たのかしら」
 少女の明るい笑顔を思い出して、シィスはまた溜め息をついた。セリシスには単に元気を分けてもらっただけではない。働くための心構えも教えてもらったし、勇気も授けてもらった。前向きな考え方もそうだ。彼女はシィスにはないものをたくさん持っていて、それを惜しみなくシィスに与えてくれた。少女は心から彼女を愛していた。
 そのセリシスが、旅立つ朝にシィスの許へ寄らないのは、単に二人がそういう約束をしたからに過ぎない。会えばまた後ろ髪を引かれるだけだ。だから、いつかの再会を約束して、二人は昨夜別れた。シィスももう吹っ切ったはずなのに、時が経つにつれて後ろ向きな発想が頭の中を駆け回るのだった。
「セリシス……」
 思わず涙ぐみ、それを拭って薬を並べていると、不意に自分の前に人が立ち、その影がシィスを包み込んだ。
 シィスは客だろうかと思って顔を上げた。一瞬逆光でそれが誰であるかわからなかった。いや、それはいるはずのない人物だったからかも知れない。
「ク、クリス……?」
 呆然と呟いたシィスに、クリスはにっこり笑ってから、いたずらっぽく言った。
「もしよかったら、私をここで働かせてくれませんか?」
「ど、どうして? だって、あなた、セリシスと……」
 シィスは立ち上がりながら、震える声でそう言った。頭の中が混乱して、自分が何を言っているのかよくわからなかった。
「セリシスとは別れたわ。私が残るって言ったの。セリシスは笑顔で『頑張って』って言ってくれたわ」
「わ、私の……ために……?」
 シィスは嬉しさと同時に、とてつもない罪悪感を覚えて蒼白になった。昨日セリシスと別れた時、クリスは泣きじゃくる自分の姿を見つめていた。あれを見て、一人にしておけないと思ったのだろう。シィスはそう思って怯えたように後ずさったが、それは見当違いだった。
 クリスはにっこり笑って首を振った。その仕種はセリシスそっくりだった。
「私は自分のためにここに残ったの。もしもそれがシィスのためにもなるのなら、すごく嬉しいけど」
「も、もちろんよ!」
 シィスは思わず涙を零し、クリスの小さな手を握った。
「クリスがいてくれたら、私これからも頑張っていける! 本当にありがとう!」
 クリスは恥ずかしそうに微笑んだ。スラムで生まれ、泥にまみれ、お腹を空かせ、毎日恨めしそうに街壁を見上げて生きてきた自分が、こんなふうに誰かに必要とされ、感謝してもらえるなど考えたこともなかった。これもすべてセリシスのおかげだ。
 4年前、ヒューミスがセリシスをスラムに連れて来た日、クリスはセリシスからひったくるようにして櫛をもらった。あの頃はまだがつがつした粗雑な子供で、他人のことなど考えられず、他の子供たちと同じで、セリシスのことなどどうでも良かった。ただ櫛が手に入ったことが嬉しくて、髪を伸ばし始めたのもその時だった。
 それから何度もセリシスと会い、話す内に、優しさと思いやりを学び、サルゼと一緒にスラムの子供たちをまとめる立場になった。いくつもの季節をセリシスと過ごし、そしてもはや彼女とこれまでになると思われた争乱の後も、本当に短い期間だったが一緒に旅ができた。
 セリシスには本当に良くしてもらった。自分がそれを彼女に返せたかは、結局今でもよくわからない。ただ、自分が彼女にしてもらったことを、今度は自分が他の誰かのためにできたなら、それはきっとセリシスへの恩返しになる。
 クリスはシィスを見上げ、久しぶりに子供っぽい笑顔を見せた。
「私も、よろしくお願いします。さあ、お仕事の準備をしましょう!」
 元気にそう言ったクリスに、シィスは大きく頷いた。
 北の空は良く晴れていた。今ごろセリシスはあの青空の下を、子供たちと一緒に元気に歩いているだろう。
「セリシス、本当にありがとう……」
 そう呟くと、目頭が熱くなって涙が零れた。慌てて拭ったけれど、涙は次から次へと溢れてきて、クリスは弱り果てて隣を見た。シィスは穏やかに微笑んで、そんなクリスを見つめていた。その瞳が少しセリシスに似ていたから、余計にクリスは熱い思いが込み上げてきた。
 涙を止めるには上を見るといい。そんなどこかで聞いた言葉を思い出して顔を上げると、雲一つない真っ青な空が小さなクリスを見下ろしていた。
 東の街壁から覗かせた朝の光に、クリスの涙が宝石のように煌いた。
Fin
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