セリシスはなんとか意識を保っていたが、足取りはおぼつかず、イェラトに肩を貸してもらって歩くのが精一杯で、部屋に入るや否や粗末なベッドに倒れ込み、すぐに意識を手放した。よほど悪かったのだろう。三人は顔を見合わせて、不安そうにセリシスを見た。
「寝ているだけで良くなるといいけど……」
クリスが絞ったタオルをそっとセリシスの額に乗せ、一つだけある椅子に腰掛けた。ヒューミスは床に座って後ろに手をつき、無言でぼんやりと天井を見上げた。イェラトはテーブルに腰を乗せ、それからやれやれと首を振ってなるべく明るい声で言った。
「とにかく、わかってると思うけど、俺たちはこれで無一文になった」
「そんなこといちいち言われなくてもわかってる!」
思わずヒューミスが声を荒げてイェラトを睨みつけた。別に彼に対して怒ったわけではなく、どうにもならない現状に焦りを感じて苛立っているのだ。イェラトもそれはわかっていたので、「ならいいけど」と気楽な口調で言ってから、ちらりとセリシスを見て溜め息をついた。
宿に入った時、三人は前金として持ち合わせていたすべての金を店主に支払った。もちろん、それがすべてだということは言わなかったし、むしろまだまだ持っているという素振りはしたが、現実問題金がなくなったのは確かで、このままでは今日の食事にも有り付けない。
しばらく沈黙がわだかまった。クリスもヒューミスも、なんとか金を手に入れる方法を考えたが、いい案は何も浮かばなかった。頼りのセリシスは寝込んでいるし、進路も退路も断たれたと言ってよい。
クリスは思わず涙ぐみ、鼻をすすった。いくら二人の少年よりお姉さんだと言っても、まだ14だ。この絶望的な状況にあって、なお強くいることはできなかった。
「私たち、どうなるのかしら……」
「クリス、泣かないでよ」
ヒューミスは床から立ち上がって、小さく震えるクリスの肩をそっとつかんだ。男として情けなくは思うが、ヒューミスはセリシスとクリスには、常に自分より強くあって欲しかったのだ。
「でもヒューミス。私たちはまだ子供だし、こんな身なりだし、お腹も空いてるし、とても働ける状況じゃないわ。頼りのセリシスは病気で、しかも明日には私たち、この宿を追い出されてしまうのよ? そうしたらどうなると思う? この右も左もわからない大きな街で、私たちは乞食になるしかないわ!」
クリスは涙を零して怒鳴るように言った。スラムにいたときももちろん貧しかったが、あそこでは自給自足の生活を営んでいた。金がなくても平気だったし、むしろ金などあっても使い道がないような暮らしをしていた。
けれど、今は違う。金がなければ何もできないのだ。自分以外の何かに頼らなければならないのはひどく不安なことだった。
「クリス……」
ヒューミスが肩を落とすと、イェラトが反動をつけてテーブルから降り、明るい表情でクリスの前に立った。
「まあ、考えてもしょうがないさ。クリス、お前も疲れてるだろ? セリシスと一緒に、ちょっと休めよ」
言いながら、イェラトはヒューミスの腕をつかんだ。そして彼を立たせると、さっさとドアのところに歩き出した。慌ててクリスが呼び止めた。
「ど、どこへ行くの?」
イェラトはドアを開けながら、ちらりと背後を振り返って、少しだけ笑って見せた。
「散歩だよ。せっかく街に入れたんだ。どんなところか見て回ろうと思ってな」
「だ、だったら私も……」
少年の言葉に、クリスは自分もついて行こうと思った。そうすれば少しは気が晴れるのではないか。けれどイェラトに止められて、閉口するしかなかった。
「クリス。お前はセリシスを見ててくれよ。気が付いたとき誰もいなかったら、また泣くぞ?」
クリスはセリシスを見た。先程より多少呼吸は落ち着いていたが、まだ肩で息をしていたし、鼻息も荒い。
クリスは溜め息をついて、セリシスを見たまま言った。
「わかったわ。じゃあ、私もちょっと休ませてもらうね?」
「ああ、そうしてくれ。適当に戻ってくるよ」
イェラトはそう言って、ドアを閉めた。そして、通路に出るや否やその表情を険しくして、決意した眼差しでヒューミスを見た。
もちろん、ヒューミスはそれで驚いたりはしなかった。彼はクリスよりは少しだけイェラトを理解していたから、まさかこの状況で彼が本気で散歩に行くなどとは考えてなかった。イェラトは何か金を手に入れるための策を持っている。ヒューミスはそう信じていた。
無言で宿から出ると、イェラトは値踏みするように街を見ながら囁くように言った。
「ヒューミス。現実問題、今俺たちが金を手に入れる方法は、スリしかない。正義感の強いお前のことだから、絶対に嫌だとは思うけどな」
その考えはヒューミスをひどく驚かせた。ヒューミスもクリスもイェラトと同じスラムの育ちだが、法に背くようなことを一切考えていなかった。もしもリアスのスラムが街の中にあったならば、スリを始めとした悪事も必要だったかも知れない。けれど、スラムはそれ単体で独立していたので、スリなどする必要がなかったのだ。
ヒューミスはすぐに首を横に振った。マグダレイナの法がどのようなものかはわからないが、一般にスリが見つかれば、二度とスリが出来ないように腕を切り落とされると聞いている。考えただけでも恐ろしいことだ。
それに彼には、そしてイェラトにもスリの経験などなかった。上手くいくよりも、見つかって捕まる可能性の方が高い。正義感云々以前に、気の弱いヒューミスにそんなことができるはずがなかった。
「無理だよ、イェラト。そんなのうまくいきっこない。もしも捕まれば、僕たちがひどい目に遭うだけじゃない。セリシスにもクリスにも迷惑がかかる」
「じゃあお前は、このまま金もなく、飢えて死ぬのか?」
イェラトの感情を抑えた言葉を聞いて、ヒューミスははっとなった。リアスの争乱の日、彼はリアスの門を開けるためにセリシスを使おうと言い出した大人たちに反発した。その時も、彼らのリーダーであるサルゼに同じことを言われたのだ。
今自分には代案が何一つない。不本意だったが、それしか策がないならば従う他になかった。
「わかったよ、イェラト」
ようやく頷いたヒューミスの背中を、イェラトは一度強く叩いて笑った。
「俺だって嫌だ。でもしょうがないからな。やると決めた以上、中途半端にはやらないぞ? 絶対に成功させる。そのつもりでやるんだ」
ヒューミスは力強く頷いてから、真っ直ぐイェラトを見つめた。
「わかった。セリシスのためだ。僕、やるよ」
二人は、まるで初めて出会った友のように、固く握手を交わした。
マグダレイナの街は、これから夕方の喧騒を迎えようとしていた。
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