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湖底の冒険

10

 サリュートがウィサンの図書室で見つけた民話集の記述がどこまで正確であるかは定かではない。だが、少なくとも湖の底に城があり、何者かが生活しているということは証明されたため、シティアたちは彼らを「湖の民」と呼んだ。
 ただ、水の中でも呼吸ができるかには疑問が残った。本当に呼吸ができるのであれば、水中にこのような空気を持つ空間を作る必要はない。もっとも、人間的な生活において浮力が不便なのは明白なため、敢えて空気中で生活している可能性は否定できない。
 シティアは女の子を水の中に突っ込んで確かめてみたい心境に駆られたが、クレイドを始め、全員から白い目で見られることが火を見るより明らかだったので好奇心を抑えた。
 一番の争点は、村人と衝突していたということだった。彼らが人間に対して友好的か、あるいは敵対的かが、城に踏み込んだ後の行動に大きく左右する。戦うための準備を整えはしたが、もし友好的であるならば、一滴の血も流すことなく何らかの結末を迎える可能性もある。
 だが、シティアはそれに否定的だった。シティアに催眠術をかけた男からは、侵入者としての彼女に対するものではない、もっと根源的な敵対心が見て取れたし、彼らは眠らせた彼女を流れ作業のように城に運んで暗示をかけ、番兵のように使役した。
 彼らは種族の本能的に人間を恨んでいる。クレイドは女の子を例に挙げて異を唱えたが、シティアはむしろこの小さな女の子こそ数少ない例外であり、城の中に入れば彼女の味方も含めて全員が敵になる可能性を指摘した。
 クレイドとシティアが並んで立ち、慎重に扉を開けると、中は程よい明度の光に満たされていた。火によるものではないのは確かだが、光源が何かは特定できない。壁自体が発光しているようにも見えた。
 中に入ると、そこは吹き抜けの広間になっていた。2階部分には、広間を取り囲むように回廊がある。壁はすべて外側と同じ濃い青色をしていた。奥にさらに扉があり、その両側に2階へと続く巨大な階段があった。
 シティアたちが数歩進むと、奥の扉から一人の女性が姿を現した。やはり水色の髪をしており、見た目にはシティアと同じくらいの年齢に見えた。もっとも、人間かもわからない生き物の年齢などわかったものではない。
 彼女を見て、クレイドの隣にいた女の子が喜びの声を上げた。と同時に真っ直ぐ走り出す。
「あっ!」
 シティアが慌てて掴もうとしたが間に合わなかった。女の子は女性の胸に飛び込むと、何やら弾む声で言いながらしきりにシティアたちを指差した。女性は優しい瞳で何度か頷き、やがて女の子を置いてやって来た。
 女性は真っ直ぐクレイドの前に立ち、何かお礼のようなことを言いながらすっと手を差し出した。クレイドが満面の笑みでその手を握ろうとする。刹那、シティアがレイピアを抜いて女性の首に突き付けた。
 女性が怯えた顔で手を下ろし、一歩後ずさる。女の子が悲鳴を上げて駆けてきた。
「王女!」
 クレイドが批難の声を上げたが、シティアは剣を下ろさなかった。冷酷な瞳で女性を睨み付けたまま、低く厳しい口調で言った。
「クレイド、軽率よ。人間ですら信用できないのに、どうしてそんなに簡単にこいつらを信用するの?」
 言い終わらない内に女性が駆け出した。シティアは素早くその手首を掴んで捻り上げる。ほとんど同時に、2階の回廊からわらわらと人が現れて弓やらナイフを掲げた。
 クレイドが舌打ちをして剣を抜く。女の子に裏切られたとは思わないが、シティアは正しかった。
「打ったらこいつを殺す!」
 言葉が通じないことは理解しつつも、シティアは大声で怒鳴った。そして奥の扉に駆けようとした瞬間、扉の上部、2階部分に金糸の入った立派な衣服を身に着けた青年が現れ、何やら怒鳴りながら手を挙げた。
 女性の顔が青ざめ、女の子が悲鳴を上げた後、一斉に矢やナイフが放たれた。女性が彼の名と思われる言葉を叫んだ。
 けれど、それらがシティアはおろか、彼女たちに届くこともなかった。竜巻のような轟音が響くと同時に、矢やナイフはすべて地面に落ちていた。もちろん、タクトの魔法である。一斉に放たれたのは彼らにとって幸運だった。
「歯向かう者はすべて斬れ! 命乞いする者は許しても油断はするな!」
 シティアは部下の二人に言い放つと、レイピアを掲げて階段へ駆けた。金糸の青年は奥に下がり、先程弓を持っていた男たちが剣を閃かせて駆け下りてくる。
 シティアのレイピアが唸る。一気に駆け抜けたかったが、それをすれば触れられる危険が高くなる。シティアは舌打ちしながら確実に一人ずつ相手にした。
 隙を見てちらりと背後を振り返ると、クレイドとレドリがもう片方の階段から殺到した男たちに囲まれ、苦戦を強いられていた。元々体力的に限界だったこともあるが、単純に能力的なこともあった。二人とも決して弱くはないが、シティアのような実戦経験がほとんどないのだ。
(連れて来ない方がよかったかもしれない)
 一瞬そう思ったが、敵が分散されているというだけで、やはり仲間は必要だと思い直した。
「タクト、私はいいから二人を守って!」
 シティアは剣を振り上げた男の顔面にレイピアを突き立てると、男たちが一瞬怯んだ隙に階段を駆け上がった。そのまま勢いに任せて2階の扉を蹴り開ける。
 挟み撃ちになる可能性も考えたが、幸いにも扉の向こうに兵士らしき者の姿はなかった。奥へ長い廊下が伸びており、民間人のような女性が怯えた顔で震えていた。
 シティアは後ろから追いかけてくる敵を斬り、立ち向かう者を薙ぎ払いながら、やがて3階へと続く階段を見つけて駆け上がった。さらにしばらく走ると、眼前に一際立派な扉が現れて足を止めた。
「ここかな」
 レイピアを強く握り直し、静かに扉を開ける。
 そこは寝室と思しき部屋だった。中央に大きな白いベッドがあり、部屋の隅に置かれた木製の台の上には、騎士の彫刻があった。そしてベッドの傍らに、寝装束の老人が剣を構えて立っていた。重い病気らしく、顔色が著しく悪い。
「誰かな」
 老人が口を開き、シティアにわかる言葉で言った。シティアは驚いたが、言葉については触れずに答えた。
「ウィサン王国のシティアよ。あなたこそ誰? ここの城主様?」
 老人はシティアに問いかけには答えずに、眉をひそめて呟いた。
「ウィサン? 我々の地に来た連中か」
「あなたたちは人間なの? でも言葉がわからないわ」
 老人は鋭い眼光でシティアを見据えた。
「それで、お前はここに何をしに来た? 我々を滅ぼしに来たのか?」
 シティアはまたもや質問を無視されたが、気にせずに答えた。
「穴があったから入っただけよ。そしたらあなたたちがいて、攻撃されたから反撃したまで。あなたも、その剣を下ろせば命は奪わないわ」
「我々はお前たちを恨み、憎んでいる。侵入されれば攻撃する」
 今度はシティアが無視した。言葉が通じれば話が通じるというものでもない。
「あなたたちの仲間の女の子が、ここに来るまでの道にあった牢屋に入れられていたわ。ご存知?」
「何のことだ?」
「知らないんだ。じゃあ、さっきの偉そうな男がやったのかな」
 シティアがぶつぶつ呟くと、老人は苛立たしげに言った。
「何のことかと聞いている。答えぬか!」
「女の子が捕まっていた。私たちが助けた。それだけよ。あなたの娘さん?」
「わしにはそんな小さな娘はおらん! いや待て……だが、しかし……」
 老人は何やらぶつぶつ言い始めたが、もはやシティアと話そうという気はないようだった。しかし、答えは必要なかった。目の前に城主と思われる病床の老人がいて、偉そうな若者と姿の似た女性の存在。
 世継ぎ争いというほどのものかはわからないが、その類だろう。大方先程の女性は女の子の母親にして、この老人の娘なのだ。
 シティアはこの冒険の結末を見た。もしも自分たちがここに来た意味が何かあるとするならば、それは恐らくあの女の子を助けることだ。彼らを滅ぼすことでも、目の前の老人を殺すことでもない。
 シティアはもうここには用はないと、彼に背を向けた。刹那、天井が開いて先程の若者がシティアの頭上に剣を閃かせた。殺戮に悦びを覚える、いびつにゆがんだ顔。背を向けていたので見えなかったが、恐らく老人も同じような顔をしていたことだろう。
 だが、シティアは動じることなくその攻撃を躱した。元々人の気配と殺気に気が付いていたのだ。着地した青年の首を、容赦なくレイピアで刺し貫いた。
「こんなところに閉じこもってるから、やり方も古風なのよ。地上人を舐めないで」
 レイピアを抜いて振り向くと、案の定老人はひどくうろたえた顔でシティアを見ていた。だがすぐににんまりといやらしい笑みを浮かべて言った。
「生きてここを出られると思うなよ」
 シティアは老人を殺してやろうかと思ったがやめた。どうせ先は長くないだろうし、無意味な殺戮が好きなわけではない。それに、何かとても嫌な予感がした。随分前にユウィルが言っていた「特殊な魔法」が頭をよぎる。
 階段を駆け下りると、1階のフロアが水浸しになっていた。いくつかの死体が浮かんでいたが、タクトら3人はいなかった。すでに奥に行ったのか外に出たのかはわからなかったが、シティアは奥には行かずに外に飛び出した。男たちより外にいる少女の方が心配だった。
 外に出た瞬間、シティアの頭上にものすごい勢いで雨が降り注いだ。まるで滝に打たれるようで、シティアはあまりの水圧に思わず膝を折りそうになった。道の上にはすでに太ももくらいまで水が溜まり、走れそうになかった。
 声と剣戟が聞こえたので見ると、レドリたちが先程の一団と戦っていた。女の子は女性と一緒にいたが、立っている場所は男たちよりクレイドに近い。
 顔を上げると遠くに魔法陣の光が見えた。シティアは詳しくないが、水の中にあってなお消えないのはさすがである。
「タクト、レドリ、クレイド! 遊んでる暇はないわ! 急いで魔法陣に戻って!」
 シティアは大声で言ったが、激しい水の音に聞こえたかはわからない。ただ、いずれにせよこのままここにいては危険なのは彼らにも明白である。
 歩き始めると水はいつの間にか腰ほどにまで上がっていた。泳ぐこともできる水量だが、剣を佩き、鎧を着た状態で泳ぐならば歩いた方が速い。
 途中でタクトたちと合流した。水の中でも妙にスムーズに動く水色の髪の男を切り捨て、魔法陣へ急ぐ。
 水量はすでに女の子の背と同じくらいになっていた。少女は時々息継ぎをしながら泳いでいた。やはり水の中でも呼吸ができるような生物ではない。
(あいつ、この子たちまで殺す気なの?)
 シティアは顔をしかめた。恐らく城の1階部分くらいの高さまで水に沈めることのできるなんらかの魔法装置があり、それをあの老人が発動したのだ。だが、もしもこの道が完全に水没したら、この二人も溺死するのではないか?
 あるいは、老人はまさか二人が外にいると思わなかったのかもしれない。今となってはわからないが、いずれにせよこのままでは溺死は免れない。
「あなたたちも私たちと一緒に来なさい!」
 言葉が通じないのを承知で叫んだ。いよいよ水が頭の高さまで来ると、髪に水嚢が乗るような感触がした。水は下からだけではなく、上からも迫っていたのだ。
 シティアは泳いだ。すでに道は完全に水の中にあり、空気はどこにもなかった。
 透き通る水の向こうに魔法陣が煌き、もがき苦しむ三人が見えた。
「ユウィル、先に逃げなさい!」
 思わず口を開け、シティアは水を飲んだ。意識が遠のく。
 だが、次に鼻から息を吸うと、肺を空気が満たした。目を開けると自分の顔の周りに空気の塊があるのがわかった。
(タクト!)
 シティアは泳ぎながら魔法陣に飛び込み、すぐにタクトたちも追いついた。タクトは魔法陣の中央に立つと、やはり空気に包まれたユウィルとともにジェリス系魔術を使う。
 同時に、彼らを覆っていた空気はなくなった。集中が途切れれば魔法は消える。だが大丈夫だ。溺死するより先に魔法は完成する。シティアは確信していた。
 苦しみの中で目を開けると、輝きを増していく魔法陣の向こうに水色の髪の女性と女の子の姿が見えた。
 シティアは珍しく狼狽した。てっきり二人は自分たちについて来ると思っていたが、彼女たちは魔法陣の外にいて中に入ろうとしない。
 クレイドが必死の形相で女の子に手を伸ばしていた。女の子もその小さな手をクレイドに向かって伸ばしていたが、女性はそんな女の子をしっかりと抱きしめ、とうとう城の方に泳ぎ出した。
 クレイドが何か絶叫し、吐いた気泡が水面に上がっていった。追いかけそうになった彼の首根っこをレドリが掴むと、魔法陣が真っ白に輝き、シティアはあまりの眩しさに目を閉じた。
 次に目を開けたとき、もうそこは水の中ではなかった。大きく息を吸って見上げると、一面の青空の下にウィサンの魔法研究所が聳え立っていた。

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