クレイドは城の花壇の縁に座って、ぼんやりと花壇を見つめていた。クロッカスの黄色と紫の中を、モンシロチョウがひらひらと舞っている。
大きくため息をつくと、ふと影に包まれた。顔を上げるとレドリが立っていた。
「なんだ、小隊長か」
「まだ気にしてるのか?」
「気にもするさ」
クレイドは力なく笑った。
満身創痍でウィサンに戻り、二人は一週間近く休養を取った。もちろんシティアが融通を利かせたのだが、仲間に羨ましがられるような休みではなかった。ほとんどずっと寝ていたのである。
クレイドはあの二人が果たして溺死することなく城まで辿り着けたかをずっと気にしていた。シティアは恐らく通常の人間より息を止めていられる時間が長いから大丈夫だと言ったが、気休めに過ぎない。
一週間の間にシティアとタクトが再び穴のあった場所まで行ったが、穴はすでに塞がれていて中に入ることはできなかった。城の内部の物がすべて自給自足で作られた物とは思えないので、必ずどこかから外に出てはいるはずだが、それを見つけるのはもはや不可能に近かった。二人の安否は半永久的に失われた。
「結局あの冒険はなんだったんだろう」
クレイドはやるせない思いで呟いた。自分たちにとっては冒険だったが、彼らにとっては自分たちは突然侵入してきた外敵に過ぎない。女の子を救出したことだけがせめてもの慰めだったが、今はまた牢屋に戻されているかもしれない。
「意味なんてないさ。穴に入ったら敵対的な存在がいて、戦いになった。無事に出て来られた。シティア王女もそう言っていた」
「無意味か……」
「そういう意味じゃない。後味は確かに悪いが、わたしは王女に感謝している」
クレイドが見ると、レドリは少年のように輝いた瞳で城を見つめていた。そして弾んだ声で言った。
「あんな経験はもう、この人生で二度と出来ないかもしれない。ウィサンの歴史には小さな一事件かもしれないが、わたしの歴史では一番の出来事だ」
「確かに」
クレイドは苦笑した。
「だけどなんとなく、これからもまだまだ色々なことがあるような気がする。少なくともシティア王女に気に入られている限りは」
「それによって死ぬかも知れないがな。わたしは今度の冒険で2回は死にかけた」
「俺は3回だな」
二人は顔を見合わせて笑った。
「危険もないが平凡で何もない人生よりは、痛い思いをしても、たとえ死んだとしても、波乱万丈の人生の方が面白い」
「シティア王女万歳だな」
「よし!」
二人はいたずらを思いついた子供のようににんまりと笑みを浮かべると、両手を挙げて言った。
「シティア王女万歳!」
「シティア王女万歳!」
同じ頃、冒険をともにした3人の魔法使いが魔法研究所の練習室に集まっていた。リアは椅子に座り、タクトは立って壁にもたれたまま、中央で魔法の練習をしている少女を眺めている。
ユウィルは魔法で空気の玉を作る練習をしていた。脱出する際にタクトが使ったものである。基本的には風を起こす魔法の応用でできるのだが、ユウィルにはその発想がなく、強い感銘を受けていた。
「あたしは泳げないけど、あの魔法が使えればなんだか随分安心です!」
そんな愉快なことを言ってから、ここ何日とずっと同じ魔法を練習している。すでに水の中に空気の玉を作ることには成功していたが、ユウィルにとって「魔法が使える」とは、時間をかけずに瞬時に発動できることを指す。
見ている方が退屈になるほどの反復練習を行うユウィルを見ながら、リアが囁くような小声で言った。
「タクトさん、私もユウィルみたいに色々な魔法を使えるようになりたいです。ユウィルから教わってもいいですか?」
リアは今度の冒険で、自分が如何に無力かを痛感していた。もっと色々な魔法が使えれば、クレイドもレドリもユウィルも、余計な負傷をせずに済んだかもしれない。
だが、タクトはそれにあっさりと反対した。
「君が色々な魔法に興味を示してくれたことは嬉しいが、今他の魔法の練習に時間を使うことに、わたしは反対だ」
リアは驚いて顔を上げた。思わず声を上げそうになり、慌てて気持ちを落ち着ける。練習室で大声を出すのはご法度だ。
「どうしてですか? 私はもっとみんなの役に立ちたいんです」
「君がこの間の冒険で無力だったと感じているなら、それは向上心が君にそう思わせる誤解だ。君の回復がなければ間違いなく全滅していた」
「私が他の魔法を使えれば、回復魔法を使わずに済んだかもしれません」
リアは食い下がったが、タクトは静かに首を振った。
「どうせどちらかを使うなら、君は君にしか使えない魔法を使うべきだ。それに君は確かに回復魔法を使うことが出来る。わたしにも使えるが君ほどには出来ない。だが、それでも君の魔力は弱い。使うたびに体力も精神力もひどく消耗する」
「はい」
「知っての通り、生まれ持った魔力は強くはならない。だが、魔法を洗練させることはできる。ユウィルもあれを3日前より疲れずに使えるようになっている。つまり、わたしは君に回復魔法においてそれを期待したい」
リアはしばらく無言でいたが、やがて小さく頷いた。完全に納得したわけではなかったが、師であるタクトがそう言うのであれば、恐らくそれが正しい道なのだろう。
タクトが部屋を出て行くと、ユウィルが笑顔でやってきてタオルで汗を拭った。
「疲れた」
「お疲れ様。だいぶ上手になったね」
リアが微笑むと、ユウィルは満面の笑みで頷いた。
リアはそっと手を伸ばし、まるで自分の娘にそうするように、慈愛に満ちた瞳で髪をなでた。ユウィルは恥ずかしそうにしたが何も言わなかった。
ユウィルはすごい。リアはこれまで何度も嫉妬してきたし、これからもまたするかもしれないが、今は心がすっきりと晴れ渡っていた。
水の中に落ちたリアを助けるとき、ユウィルは言った。シティアとリアの生命を区別したくないと。それをクレイドから聞かされたとき、リアは心からユウィルに感謝し、彼女を愛した。
「ユウィルはすごくいい子なのに、私はそんなユウィルに嫉妬したりして、自分が恥ずかしい」
クレイドはユウィルの無邪気さを子供だからと言ったが、リアはそうは思わない。だが、無邪気なことすら誤解だとユウィルは笑った。
「あたしはいい子じゃないし、よくリアに嫉妬してるよ? でも、使えないものは使えないから、あたしは自分に出来ることを頑張ろうと思ってる。逆立ちしたってシティア様みたいに剣は使えないし、治療の魔法が使えないのも、きっとそれと同じことなんだよ」
ユウィルの言葉に、リアは雲間から光が差すような思いがした。次の瞬間にはもう、心の中にあった釈然としないものは消えていた。
「ああ……。やっぱりユウィルはすごいね」
いとおしむように抱きしめながら、リアは心に誓った。
タクトの言うとおり、今は回復魔法に専念しようと。
部屋の窓から遠く湖の方を眺めていたシティアだったが、ふと足元の花壇で男二人が万歳しているのを見て怪訝そうに首をひねった。
「あの二人、何してるのかしら」
「どの二人?」
部屋に一つしかない椅子に腰掛け、本を読んでいたサリュートが顔を上げる。シティアは振り返らずに答えた。
「レドリとクレイド。何か言いながら万歳してる」
「何かいい知らせでもあったんじゃないのかい?」
サリュートが淡々とそう答えると、シティアは軽蔑する瞳で振り返った。
「サリュートって、他人に無関心よね。私にしか興味ないの?」
「なっ……!」
サリュートは思わず赤くなって腰を浮かせた。すぐに椅子に座り直して、平静を装って言葉を返す。
「まさかそんな言葉を君から聞く日が来るとは思わなかったよ。あの誰にも関心のなかった君から」
シティアは特に気にしたふうもなく、笑って答えた。
「人は変わるみたいね。それに関心がなかったわけじゃないわ。ただ誰も信用してなかっただけよ」
窓に背を向け、ベッドに腰掛ける。急に関心が出たのか、あるいは何気なくか、サリュートが立ち上がって窓の下を見下ろした。それからシティアを振り向いて言った。
「少しは懲りたかい? 僕たちの到着がもう少し遅れていたら、君は今頃まだ湖の底にいたかもしれないよ?」
「でも今ここにいるわ」
「結果的にはね」
「結果がすべてよ」
「でも怖い思いをしただろ? 少しは懲りないのかい?」
サリュートが情けない顔で尋ねた。シティアの教育係よろしく、少しは懲りて大人しくなってほしかったが、どうやらシティアにはまったくその気はないようである。サリュートの気持ちなどどこ吹く風で、明るく笑って言った。
「無事に終われば、全部いい思い出ね。うん。ユウィルに剣を向けたのはすごく心苦しいけど、操られたおかげで滅多に聞けない台詞も聞けたし」
いたずらっぽい瞳でサリュートを見る。シティアの言わんとすることを理解して、幼なじみの青年は顔を真っ赤にして目を逸らせた。
「あ、あれは物の弾みで……」
「いいじゃない。私は好きって言ってくれると嬉しいわ。ユウィルはよく言ってくれるのに」
「そう言う君だって、僕には言ってくれないよね。ユウィルには言うのに」
サリュートは男女ではそう簡単にはできないのだと、逆の立場でわからせようとしたが、シティアはやはり気にすることなく、あっけらかんと言った。
「私はサリュートのこと好きよ? ユウィルの次に好き」
サリュートはがっくり肩を落とした。やはりシティアは自分をユウィルと同じようにしか見ていない。
「でも、とりあえず男の中では僕が一番なんだね。素直に喜ぶことにするよ」
本当に素直に喜ぶなら、わざわざ『素直に喜ぶことにする』などとは言わない。
「素直じゃないね」
シティアは笑いながらそう言うと、再び窓の外に目をやったサリュートを背中から抱きしめて、肩越しに外を見る。部屋が城壁よりも高い位置にあるので、辛うじて遠くの湖が見えた。空と同じ色に輝いている。
「まさかこんな近くにあんな冒険が眠ってるなんて、この国も捨てたものじゃないよね」
「王女が国を捨てるなよ」
サリュートはいきなり抱きしめられて気が動転し、そんなわけのわからないことを口走った。シティアは可笑しそうに声を上げてから、そっとサリュートの頬にキスをした。
「助けてくれてありがとう」
サリュートが真っ赤になって俯くのを見て、シティアは勝ち誇るように笑った。
窓の下ではレドリとクレイドが何やら握手しながら、肩を叩き合っていた。熱い友情でも芽生えたのだろうか。
「冒険はいいね!」
シティアは軽いステップを踏みながら言った。
サリュートが絶望的なため息をついた。
Fin
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