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湖底の冒険

 一般に「魔法」と呼ばれるものはウィルシャ系古代魔法を指す。これは頭の中にイメージしたものを魔力によって具現化するもので、そのためには相当な想像力と集中力を必要とする。
 もちろん、武人が鍛錬によって相手の攻撃を反射的に躱すことができるようになるように、魔法も反復練習によってほとんど意識せずに発動させることができるようになる。
 しかし、無意識に身体を動かすよりも、無意識に頭を動かす方が遥かに難しいと言われ、瞬間的に魔法を発動させるのは至極困難であるというのが一般論だった。
 クレイドは、自分では魔法を使うことはできなかったが、魔法に力を入れているウィサン王国に仕える身として、その程度の知識は有していた。だから、今ある状況がもはや奇跡に近いことであると、青ざめながら思ったのだ。
 クレイドとユウィルが落ちた場所は真四角の部屋で、壁から壁まで大人が20歩ほど歩いた程度の広さだった。
 穴はその部屋の隅に空けられており、その下には子供の背丈ほどの長く鋭い棘が、床から無数に突き出していた。穴から遠いところには棘はなかったが、落ちた者が棘のない場所に着地するのはほとんど不可能と言ってよい。
 その剣山の床を、クレイドは空中から見下ろしていた。落とした松明が棘の隙間でちろちろと赤く光っている。
「お前って、すごいヤツなんだな……」
 震える声で呟いてから、辛うじて自分を支える細い腕にしがみついた。見上げると、魔法使いの小さな少女は険しい顔で足元の棘を見下ろしていた。
 本当に一瞬と言っていい時間だった。しかもいきなり床に穴が開くという唐突な事態の中で、ユウィルは魔法で空中に静止した上、自分よりも先に落ちたクレイドの腕を掴んだのだ。
 洞窟に入る前、いともあっさり光の玉を浮かべて見せたとき、リアはユウィルのことを「特別」だと言った。クレイドはあまり魔法に詳しくなかったので、特に感動を覚えずにシティアと二人でユウィルをからかったが、今あれが如何にすごいことだったのかを実感した。
 ユウィルは一言も声を出さずに、棘のない場所に着地した。それから力なく床に崩れ、瞳に涙を浮かべて小さく肩を震わせる。
 クレイドは棘の隙間を縫って松明を拾っていたが、ユウィルの様子に気が付くと慌てて駆けつけた。
「おい、子供。どうした?」
 膝をついて松明を置き、片手でそっとユウィルの背中をなでてやる。ユウィルは震えたまま何も言わなかった。
 恐らく、後から恐怖がやってきたのだろう。クレイドはまだ若かったが父性のようなものを覚えて優しい瞳をした。
「助かったよ、ユウィル。ありがとう」
 だが、ユウィルが震えていたのは自分に降りかかった恐怖のためではなかった。クレイドの声に顔を上げずに頷いた後、消え入りそうなほど小さくかすれる声で言った。
「リアは……リアは助からない……」
 クレイドははっとなった。気が動転して、反対側に落ちた二人のことをすっかり失念していた。
 ユウィルを「特別」だと言ったとき、あの少女は自分にはできないと言った。もしもリアとレドリが落ちた穴にも同じように棘が敷き詰められていたら、今頃串刺しになっている可能性が高い。いや、助かっている可能性は万が一にもない。
「落ち着けユウィル。まだそうと決まったわけじゃないだろ?」
 クレイドはまるで自分に言い聞かせるように上擦った声で言った。
「なあ、どうして穴が二つに分かれていたんだ? 同じ罠が張ってあるなら、二つに分ける必要なんてないよな?」
 自分でもいい加減なことを言っていると思ったが、クレイドの言葉にユウィルは驚いた顔をした。
「そっか……」
「そ、そうだよ。だから落ち込むな。な?」
 まるでむずかる子供の機嫌を取るように猫なで声で言ってから、クレイドは立ち上がった。改めて周囲を見回すと、壁の一箇所に扉があった。
「おい、ユウィル。あそこに扉があるぞ。行ってみないか?」
 クレイドは言いながら扉の方に歩き出したが、返事がなかったので立ち止まって振り返った。
 ユウィルは突っ立ったまま、じっと天井やリアとレドリが落ちた方の壁を見つめていた。
「上から戻るのか?」
 クレイドは長い通路の手前でユウィルが魔法で扉を破壊したのを思い出した。扉はあるが、必ずしも使う必要はない。落ちてきた場所から戻れるのなら、それがシティアのもとに戻る最短経路なのは間違いない。
 ユウィルは無言のまま首を傾け、思案げな顔をした。クレイドはなかなか会話がかみ合わないことに若干の苛立ちを覚えたが、この少女の方が賢いのはもはや明白だったので、何も言わずに少女の思考がまとまるのを待った。
 やがてユウィルは小さく首を横に振ってクレイドを見た。
「あそこはこっちからじゃ開かない気がする。魔法を使って無理に壊すのは危ないから……。ひょっとしたら上にシティア様がいるかもしれないし、部屋の天井全部が崩れてくるかもしれない」
「じゃあ、やっぱりあの扉から行くか? 構造からして、必ずこの罠を作った連中の居場所に続いてると思うが」
 それにはユウィルは大きく頷いたが、扉の方は見なかった。代わりにすっとチョークを取り出して、棘の隙間を縫って壁の方に歩き出す。
「さっきクレイドさんが言ったことが気になります」
「さっき?」
「部屋が二つに分かれてることです。なんとなくだけど、リアとは今合流しておいた方がいい気がします」
 クレイドはもはや何も言うまいと、苦笑しながら壁にもたれて命の恩人の行動を見守った。
 ユウィルはチョークを握り、慎重に魔法陣を描き始めた。

 クレイドが半ばユウィルを慰めるために言った憶測は、幸いなことに的中していた。それぞれ罠の種類が違ったのである。
 リアとレドリは落下してすぐに水中に身を投じた。松明はあっと言う間に光を失い、辺りは深淵の闇に包まれる。衣服が水を吸い込み、まるで鉛のようにリアの身にまとわりついた。鎧を着ているレドリはもっと深刻な状況になっているだろう。
 深さはわからないが、少なくとも落下した勢いで1メートルほどは潜ったが、それでもなお足はつかなかった。リアは懸命に水面を目差した。穴に落ちてから着水するまでわずかな時間があったので、水が天井まで届いていることはないだろう。
 リアはあまり泳ぎが得意ではなかったが、水面に顔を出すくらいのことはできた。もっとも、その状態を維持することは適わず、もがきながら叫んだ。
「レドリさん! レドリさんいますか!」
 レドリの声はなかった。どこかから水が入り込んでいるらしく、引っ切りなしに水の音がする。しかし上に空間があるのだから、その分だけ別の場所から水が排出されているのだろう。
 リアは無理矢理頭上に手を伸ばしてみたが、天井には届かなかった。少し泳いだら手が壁に触れた。だが、取っ手となるようなものはなく、このままでは疲れ切って溺れるのは必至だった。
「レドリさん! いたら返事してください!」
 何度か叫ぶと、ようやく離れたところからレドリの声がした。
「リア、どこにいる!」
 リアは「ここです!」と叫んだが、声が響いてレドリの位置はわからなかった。恐らく向こうもリアの場所がわからないだろう。
(せめて光を作れたら……)
 リアは心の中で舌打ちをした。自分がユウィルほど速くできる魔法は回復だけである。この今にも沈みそうな状況では、とても光など作ることはできない。
 ユウィルは光の玉にしろ浮遊の魔法にしろ、色々な魔法を毎日のように練習していた。だがリアは回復魔法以外はほとんど練習していないし、そうしていればタクトにも何も言われなかった。リアは敬虔ではあったが、勤勉ではなかったのだ。
 こんなことになるのなら、もっと色々な魔法を練習しておくべきだったと思ったが、今更悔やんでも仕方ない。リアはとにかく合流しようと泳ぎ始めた。
 その刹那、レドリの鋭い声がした。
「気を付けろ、リア! 何かいるぞ!」
「何か!?」
 思わず水面で硬直し、大声で聞き返した。しかしそれっきりレドリの声はなかった。
 リアは大きく息を吸って水中に身を投じた。宛てもなく泳ぎ回っていると、いきなり太ももに痛烈な痛みを感じて、リアは呼吸を乱して水を飲んだ。かまれた痛みではない。刃物で切り裂かれた痛みだ。
 すぐに治そうと思ったが、尋常は痛みではない上、完全に溺れてしまってどうにもならなくなった。鼻と口から容赦なく水が入り込み、リアはもがいた。
(だ、誰か助けて! 王女! ユウィル!)
 目を見開き、どんどん沈んでいく身体を懸命に押し上げようとしていると、不意に身体に衝撃を受けた。一瞬意識が飛び、気が付くと耳元でレドリの大声がした。
「しっかりしろ、リア!」
 幸いにもリアの意識はすぐに戻った。どうやらリアに気が付いたレドリが、水面まで運んでくれたようである。
 リアはレドリに身を委ねて自分の怪我を治した。腕の中で喘いでいると、レドリが申し訳なさそうに言った。
「すまない、リア。君を切るつもりはなかったんだ」
 どうやらレドリは水の中にいる何かを切るために、がむしゃらに剣を振り回していたらしい。その切っ先がリアに当たったのだ。
 もっとも、レドリもそれですぐに切ったのがリアとわかったわけではなかった。むしろ敵だと思ってとどめを刺そうとしたら、偶然リアの柔らかな肢体に触れたのである。
 リアが何かを言う前に、突然レドリが絶叫して水の中に沈んだ。リアは引きずり込まれそうになったが、レドリがすぐに手を離してくれたのでなんとか状態を維持できた。
「レドリさん!」
 自分の足元でレドリが激しく何か戦う気配がした。リアはどうすることもできずに、疲れ切った身体を必死に水面に固定しながらひたすらレドリの無事を祈った。
 やがて、何か大きな物体が浮かんできた。感触でシャチのようなものだとわかった。リアは反射的にその上に乗ったが、どうやらすでに死んでいるようだった。レドリが倒したのだろう。
 だが、そのレドリは水面に上がってこなかった。
 リアはシャチもどきの上で水を吸った上着を脱ぎ捨て、再び水の中に身を投じた。しばらくレドリを探したがすぐに息が苦しくなり水面に戻る。
 もう一度挑戦すると、水面下でもがいているレドリに手が触れた。リアはレドリの手を掴み、引っ張り上げようとしたが、逆に自分が沈みそうになって手を離した。
 次に水面に戻ると、もはや飛び込む体力は残っていなかった。だが、自分が飛び込まなければ誰がレドリを助けるというのだ。彼にはもう自力で上がってくる力がないのは明白だった。怪我をしているのかもしれない。
 リアは呼吸を整えてから、最後の力を振り絞って水に入り、シャチもどきの身体を強く蹴った。レドリの立てるわずかな水のゆらぎを感じながら一気に潜ると、再びレドリとの接触に成功した。
 リアはレドリの身体にしがみついた。そして死を覚悟し、達観した境地で魔法に集中する。怪我は見てみないと治せないが、力を与えることくらいはできるだろう。
(神様、もしいるのなら、レドリさんを、私たちをお助けください!)
 ありったけの力をレドリに注ぎ込むと、もはやリアの身体に水面に上がるだけ力は残されていなかった。レドリが力強くリアの身体を片手に抱きしめたが、浮上する気配はなかった。
(ああ……)
 胃や肺に波のように水が入り込んでくる。頭ががんがんして、全身が痺れた。もがく力もなく、少しずつ緩んでいくレドリの腕の感触もなくなっていった。
(王女……シティア王女、王女王女王女……)
 薄れていく意識の中で、リアはシティアを思い出していた。だが、それも次第に消えていき、リアは完全に意識を手放した。

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