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湖底の冒険

 当然だが、ウィサンの王女であるシティアは自国の歴史に詳しい。
 ウィサン王国が建国されたのは、今から70年ほど前、ルヴェルファスト歴435年。ウィサンの初代国王ディーゼムが、大陸西部から多くの民を引き連れてこの地に移住してきた。
 それ以前からここには小さな漁村があったのだが、ディーゼムは村長と話し合い、友好的に彼らを国民として味方につけた。
 およそ10年かけて城と城壁が建築され、ようやく大陸がウィサンを国として認めるようになる。
 471年、初めて城壁がその機能を発揮したのは、隣国ユルクとの戦いの時で、70年の歴史の中でウィサンが戦争に巻き込まれたのはこの一度きりだった。
 この戦いは、すでに同盟関係にあったエルクレンツが味方したこともあり、ユルクが手を引き、その後不可侵条約が締結された。互いに国王が変わった今では、もはや当時の確執はなく、友好的な関係にある。
 周囲にはこれらの他に国はなく、南には湖しかない。435年以前の歴史はウィサンには存在しないが、他に国があったという形跡はなく、シティアはため息をついて歴史書を机の上に放り投げた。
「結局、下調べしたけど、何もわからなかったわ」
 森を出てから3日が経っていた。城に戻ったシティアは、すぐにでも森に戻りたそうな二人をなだめ、何か情報はないかと書庫に入り浸っていた。
 けれど、穴に関する記述はもちろん、あの穴を掘った可能性のある者にすら行き着かなかった。
「もっとずっと古くからあるのかも知れないよ」
 静かにそう言ったのは、シティアの幼なじみの青年だった。サリュートという名で、父親が城の要職にあるが、本人は学生で、自ら学ぶ傍ら、子供たちの教師もしている。
 シティアのそばにいる人間にしては珍しく運動がからっきしだが、波長が合うのか、シティアが最も信頼している者の一人だった。
「何があるのかしら。どう思う?」
 興味深く目をやると、サリュートは困ったように笑ってから、あまり面白くない答えを返した。
「何でもいいけど、シティアに危険がないことを願ってるよ」
「サリュートは男のくせに、夢もロマンもないのね」
 ふてくされて言うと、サリュートは平然と切り返した。
「君は女の子で、しかも王女という立場にありながら、夢やロマンがありすぎるんだよ」
「男で、しかも庶民に生まれていてもきっとこういう性格だったと思うわ。だとしたら、描いた夢に向かって行動できる立場にあるのは良かったと思う。ほら、パン屋や靴屋じゃ、冒険どころじゃないでしょ?」
 サリュートは今度こそ呆れたようにため息をついた。
「シティアも、わけのわからない屁理屈を言うようになったね。昔からひねくれてたけど、もう少し素直だった気がする」
 シティアはカチンと来た。立ち上がってすたすたサリュートのところまで歩くと、腕を引っつかんでベッドに転がす。
「あなたこそ、随分生意気なことを言うようになったと思うわ。昔はもう少し可愛げのある男の子だった気がするけど」
 軽く関節を取って寝技をかけると、サリュートはあっと言う間にギブアップした。ベッドの上で肩を抑えて呻いているサリュートの隣に寝転がって、シティアは天井を見つめて言った。
「あなたも来る?」
 ちらりと横を向くと目が合って、サリュートが露骨に顔を赤くして俯いた。
「僕はいいよ。行っても邪魔になるだけだし。その代わり、無事に帰ってきてくれよ?」
「当たり前じゃない。案外何もないかもしれないし、その可能性は高いし、心配は要らないわ」
 シティアはサリュートの腕を枕にして、目を閉じた。サリュートがそっと髪をなでると、シティアの腕に胸が触れ、シティアは小さく笑った。
「あなたは私といるといつもドキドキしてるのね。変なの」
「た、たまには君もドキドキしてくれよ」
 呆気なく動揺していることを知られて、サリュートは恥ずかしそうにしてから唇を尖らせた。シティアはからからと笑い飛ばした。
「何年一緒にいると思ってるの? あなたとじゃ、一緒に寝ててもドキドキできないわ」
 もっとも、若い兵士と野宿してもなんとも思わないシティアだから、相手が誰であろうと少女らしい緊張を持てるかは疑わしいものである。
「じゃあ、ドキドキさせてみる」
 サリュートは子供のようにそう言うと、そっとシティアを抱きしめて顔を寄せた。
「サ、サリュート……」
 さしものシティアも唖然となり、言葉を失う。全身の力を抜いてそっと目を閉じたとき、いきなり部屋のドアがノックされた。
 シティアは思わずサリュートを蹴飛ばして立ち上がった。哀れにも、サリュートはベッドの向こう側に落ちて小さな叫び声を上げた。
 シティアが声をかけると、可愛らしい女の子の声とともに、静かにドアが開けられた。立っていたのは、大きな瞳に栗色の髪をした13、4歳の女の子だった。シティアがこの世で最も愛する魔法使いの少女である。
「こんにちは、シティア様」
「ユウィル!」
 シティアは条件反射のように駆け寄ると、小さな身体を抱きしめた。
 ユウィルは思い切り恥ずかしがってから、サリュートに気が付いて頭を下げた。
「こんにちは、サリュートさん。ひょっとしてお邪魔でしたか?」
「別にそんなことはないよ」
 サリュートは笑いながらそう言ったが、その笑顔はあまりにもぎこちなかった。シティアとキスをし損ねたのだ。不機嫌になるのも仕方ないが、それをぶつけるほど子供でもなかった。
「ユウィルはいつ来ても歓迎よ。むしろ邪魔ならサリュートを追い出すけど」
「と、とんでもありません! 今日は冒険の話はどうなったのかなって思って来たんです。タクトさんも気にしてて……」
「ああ、そのことね」
 シティアはユウィルを椅子に座らせると、自分は無造作に窓枠に腰かけた。
 ユウィルの言う「冒険の話」とは、もちろん森で見つけた穴のことである。ウィサンに戻ってきて真っ先にユウィルにそのことを告げ、探検に行くときはユウィルとリアの二人を借りていくことを、魔法研究所の所長であるタクトに承諾してもらった。
「色々調べたんだけど、情報はなかったわ。だから、晴れていたら、明日の朝出発しようかと思ってる」
「そうですか!」
 ユウィルは楽しそうに瞳を輝かせた。この少女は、探検自体を楽しみにしているわけではなく、単にシティアと一緒に何かをするのが好きなのだ。そのままの笑顔をサリュートに向けた。
「サリュートさんも来るんですよね?」
「いや、僕は行かないよ」
 サリュートが即答して、苦笑しながら手を振った。ユウィルは意外そうな顔をした。
 ユウィルはサリュートとシティアは恋仲だと思っていたので、当然一緒に行くものだと考えていた。サリュートが武芸に秀でていないことは知っていたが、そもそも今度の冒険を、それほど危険なものだと認識していなかった。
 シティアもそれに気が付いたので、ゆっくりした口調でたしなめた。
「ユウィル、ピクニックに行くわけじゃないのよ? ユウィルは強いから連れて行く。リアは戦えないけど、怪我が治せるから連れて行く。二人とも、別に友達だから連れて行くわけじゃないわ」
「そうなんですか」
 ユウィルは少し驚いたようだが、やはり平然と答えた。あからさまに危険だと言われようと、動じるような子供ではない。その辺りも、シティアがユウィルを愛する理由だった。
「じゃあ、あたしとリアと、レドリさんと……クレイドさんでしたっけ? 4人ですか?」
「そうね。ピクニックならユウィルと二人で行ってあげられたんだけど」
 シティアが気を遣ってそう言うと、ユウィルは大きく首を振った。
「あたしはみんなと一緒でもいいですよ。シティア様のおそばにいられれば、それだけで幸せなんです」
 笑顔でそう言うと、椅子から立ち上がり、深く頭を下げる。
「それじゃあ、あたしはリアとタクトさんに話してきますね。明日リアと一緒にここに来ます」
 言うが早いか、ユウィルは挨拶もそこそこ、部屋を飛び出していった。
 シティアがドアを見つめていると、サリュートがおどけたように肩を上げた。
「あの子は恥ずかしいことを平気で口にするね。僕なら思っていても口にはできないよ」
 言ってすぐ、サリュートは真っ赤になって手を振った。
「お、思っていたらっていう、仮定の話だよ?」
 一人でしどろもどろになっているサリュートを見て、シティアはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「忙しい人ね。あなたもあの子みたいに、さらっと言ってみたらどう?」
 特別サリュートを試したわけではなかったが、その台詞がサリュートにそう聞こえても何も不思議ではない。
 シティアに恋心を抱く青年は、一度息を飲み込むと、わざとらしく咳払いをしてから裏返った声で言った。
「僕も、シティアのそばにい、いられたら、それだけで……幸せだよ」
「あははははっ!」
 言い終わらない内にシティアが笑い声を上げて、サリュートは思い切りふてくされた。
「いいよ、もう。どうせシティアは、僕のそばにいるだけじゃ、幸せになれないもんね」
「わかってるじゃない」
 シティアはひとしきり笑ってから、サリュートの肩を叩いた。そのまま背中に手を回し、肩に顔を埋める。
「でも、せっかく勇気を出して言ったから、さっきの続きくらいはしてあげるわ」
「シティア……」
 サリュートは心臓が飛び出るほどドキドキしながら、そっとシティアの細い肩を抱いた。
 そして、目を閉じてかすかに顔を上げるシティアに顔を寄せ、唇を重ねる。
 シティアはくすりと笑って、一度思い切りサリュートの身体を抱きしめてから手を離した。
「さっ、私も準備しなくちゃ。サリュートも手伝ってね」
「あ、ああ」
 サリュートはシティアの温もりに浸りながら、ぼんやりしたまま頷いた。
 シティアは少しだけドキドキしていたけれど、もちろんサリュートがそれに気が付くことはなかった。

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