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湖底の冒険

 破裂しそうなほど速く鳴る胸の鼓動がユウィルの小さな身体に伝わっていくのがわかる。ユウィルの息づかいは相変わらず苦しそうだ。一瞬の静寂の後、リアは大きく息を吐いた。呼吸するのも忘れていた。
 見上げると、シティアは仁王立ちになって不思議そうに開いた両手を見つめていた。強く握っていたはずの、そしてリアの生命を奪うはずだったレイピアが忽然と消えてなくなっていた。
 リアが首だけで振り返るのと、シティアが顔を上げるのはほとんど同時だった。
「もしユウィルが誰かに負けるなら、それはユウィルが全力で戦えない相手だろうと思っていた。王女、あなたのような」
 沸き上がってくる怒りを必死に堪えるように、低く淡々とそう言ったのは、リアとユウィルの師である、ウィサンの魔法研究所所長タクト・プロザイカその人だった。手には先程までシティアが持っていたレイピアを握っている。魔法で奪い取ったのだ。
 タクトはそれを後ろに控えていた青年に手渡した。シティアの幼なじみのサリュートである。二人はユウィルの足跡を辿ってここまでやってきたのだ。
 サリュートは持っていてもどうせ使えないからと、その剣を美しく透き通る水の床に置いた。そしてタクトの隣に立って、操られている幼なじみに向かって叫んだ。
「シティア! 誰よりも強い君が、どうしてそんな情けない姿をしてるんだ!」
 シティアは一瞬その表情をゆがめたが、すぐに城の方に身体を向けて、数歩歩いた。そして落ちていたクレイドの剣を拾うと、2、3回素振りをする。華奢なシティアには大きな剣だが、扱えないほどではなかった。見た目よりも力がある。
 シティアの鋭い眼光がサリュートを捉えた。だが、サリュートも怯むことなく、タクトの前に出て真っ直ぐその瞳を見据えた。彼自身は何の力も持っていないが、背後にある絶対的な信頼が彼に勇気を与えていた。
「タクトさん、期待してますよ」
 タクトは「ああ」と答えて頷いた。
「失敗したらご両親には俺からお悔やみ申し上げよう」
 サリュートは苦笑した。タクトの口調に「失敗」の二文字はない。
 シティアが腹の前に剣を構えて、軽やかに床を蹴る。サリュートも覚悟を決めてシティアに向かって走った。
 残り二歩。サリュートはシティアを迎え入れるように両手を広げた。シティアは顔色一つ変えず、無防備なその腹部へ剣を突き立てる。
 二人の影が重なった。サリュートは衝撃に一歩よろめいたが、しっかりと踏みとどまって自分より一回り小さい幼なじみを抱きしめた。背後で、タクトが奪い取った剣を床に置く音がした。
「好きだよ、シティア」
 シティアの髪に、サリュートは囁くように、けれど強い気持ちを込めて言った。
「だけど、僕の好きなシティアは今の君じゃない。君は、君が誰よりも愛するユウィルを斬って、どうしてそんな平然としてるんだ?」
 シティアはサリュートの腕の中でもがいた。だが、動揺がそうさせるのかサリュートから逃れることはできなかった。サリュートはいとおしむようにシティアの髪をなでた。
「誰よりも強くて何者にも屈しない君が好きなんだ。そんな誰かの操り人形になってる君なんて見たくない。もし心の内で戦ってるなら、いつものように勝ってみせろよ」
 シティアは大きく首を振った。そしてようやくの思いで振りほどいた右手で、サリュートの首に掴みかかる。
 その腕を、ほっそりとした両手が強く掴んだ。シティアが首だけで振り向くと、栗色の髪の小さな少女が哀願するように見上げていた。
「いい加減にしてください、シティア様」
 ユウィルが拗ねた子供のように唇を尖らせて言った。服はもちろん破れたまま血に染まっていたが、怪我はリアの魔法で完治していた。ユウィルの後ろでリアが両手を胸の前で組み、はらはらした表情で立っていた。
「シティア様、あたしたちを全員殺して、こんなどこかもわからない場所で操られたまま一生を終える気ですか? それでいいんですか?」
 咎めるように言ったユウィルの言葉に、シティアの瞳に戸惑いの色が浮かんだ。シティアが再び視線を戻すと、サリュートは穏やかな優しい瞳でシティアを見下ろしていた。
「シティア、もうそんなつまらない暗示は撥ね退けて、僕たちの好きな君に戻ってくれ」
 そう言って、サリュートはそっとシティアに口づけした。
 シティアの大きく見開いた瞳に涙が浮かび、キラキラと輝きながら頬を伝った。

 時々、水の流れる音が聞こえてくる。不思議な光で照らし出された水の中を、色とりどりの魚の群れが泳いでいる。半透明の床の下にも、地表近くでは見たこともない魚の姿が見える。
 その床の上に、クレイドは四肢を投げ出して寝転がっていた。シティアに抉られた腹部はタクトによって癒されていたが、失われた体力まで戻るわけではない。出血の量は多かったし、ここに来るまでに蓄積された疲労もそろそろ限界に達しようとしていた。
 レドリは主人の手前、気丈に立っていたが、時々膝が笑って崩れ落ちそうになっていた。溺死しかけて九死に一生を得た後すぐ、シティアとの交戦により負傷し、もはや気力だけで動いているような状態だった。
 リアはタクトのそばで疲れ切った顔で座っていた。シティアに斬られた中で治したのはユウィルだけだったが、水の罠で受けたダメージと、その後全員の怪我を治した疲労は元々丈夫ではない少女の身体を蝕み、目を閉じるとそのまま気を失いそうだった。
 ユウィルもそんなリアのそばで、憔悴した表情で床を見下ろしていた。やはり怪我は治っていたが、体力までは回復していない。魔法の天才だが、魔法を使うのに力を要さないわけではないので、度重なる魔法の使役によりすべての精神力を使い切ってしまった。
 しかもシティアと再会できた安心感により、二人の少女はまだ安心できる状況にないのは理解しつつも、張り詰めていたものが切れたようにすっかり気が抜けてしまった。現状から回復するには、安静と睡眠以外にないだろう。
 タクトは今来たばかりだが、これまで魔法を駆使してきたのは事実だし、長い距離を歩いている。クレイドやレドリと比べて頑丈でもなかったし、あまり得意ではない治療魔法の使役が、確実に彼を疲れさせていた。表情にやや陰りがあるのを、シティアは見逃さなかった。
 サリュートはそれほど疲れてもいなかったが、元々戦力外である。水色の髪の少女は数にすら入れていなかった。
 シティアはサリュートの隣で満身創痍の仲間たちを眺めながら、ため息混じりに呟いた。
「状況は良くないわね」
 クレイドが苦笑し、ユウィルが声に出した。
「誰のせいですか?」
 もちろん冗談だが、怒気をはらんでしまったのは疲れのせいだろう。ユウィルはそれに気が付いて謝ろうと思ったが、口を開くのも面倒だったのでやめた。幸いにもシティアは気にする様子を見せなかった。
「そのことは、もうさんざん謝ったでしょ?」
 実際戦いの後、シティアはクレイドやレドリが驚くほど真剣に、何度も何度も謝った。元々誰も操られていただけのシティアを責めるつもりはなく、全員すぐにシティアを許したが、本人は納得できないように謝り続けた。恐らく自分の不甲斐なさが腹立たしかったのだろう。
 タクトが負傷者を治療してからしばらく経つ。だが、それでわずかでも回復するほど彼らの疲労は軽いものではなかった。
 シティアは何とはなしにレイピアで水の壁をつつきながら、あまり感情のこもらない声で言った。
「私はやられっぱなしっていうのも癪だし、これからあの城に乗り込もうと思うけど、ついてくる人は手を挙げて」
 顔だけで仲間を見ると、わずかの迷いもなく、元々一緒にここに来た4人が手を挙げていた。シティアは嬉しそうに顔を綻ばせながらも、苦笑して言った。
「だと思った。だから私は、ここで引き返そうと思うの。ここにいるメンバーは、能力的にもチームワークを見ても、ウィサンで最強のメンバーが集まったと思う。だけど、それは万全の状態での話。今この状況で、見知らぬ能力を持った連中を相手にするのは危険すぎるわ」
 シティアの隣でサリュートが知ったような顔で大きく頷いていた。とにかくシティアとその周囲の人間の無事がまず第一なのだ。冒険の二文字は彼の辞書にはない。
 クレイドはそんなサリュートを見て、不機嫌そうに顔を背けた。もちろんそれほど険悪なものではなく、単なる嫉妬だったが、シティアのようなはちゃめちゃな人間が、彼のような保守的な男に好意を抱いているということに納得できなかったのだ。もっとも、内心ではシティアには彼のような引き止め役が必要だと理解してもいたが。
 そんな思いもあったからか、クレイドは低い声で主人に異を唱えた。
「王女、俺は行きますよ。そいつのこともあるし」
 そいつとは、もちろん水色の髪の女の子のことだった。シティアは敢えて無視して数に入れていなかった少女に目を遣った。
「その子は?」
 クレイドはひどく疲れていたが、自分が一番彼女のことを理解していたので、出会いから今に至るまでを説明した。シティアは黙って聞いていたが、話が終わると険しく表情をゆがめた。
「ぼんやりした記憶で悪いんだけど、あの城の中にはその子と同じようなヤツしかいなかったわ。他の存在よりも、仲間割れを疑うべきね。ほら、人間だってみんながみんな仲がいいわけじゃないでしょ?」
 至極もっともなことだったが、意外な感じがして皆大きく頷いた。人間は同族で殺し合うが、こと他の種族になると、種族全体を一塊として見るため、仲間割れという概念があまりなかった。
「じゃあ、あの中にはその子の仲間もいる可能性があるわけね。実は心の中でちょっとだけ、ユウィルとタクトに全力で城ごとぶっ壊してもらおうとか思ってたけど、そうもいかないわね」
 タクトが苦笑し、ユウィルも困ったようにぎこちなく笑った。
「まあ、でも私たちがその子のために何かを努力する必要もないけどね」
「王女!」
 クレイドが批難の声を上げたが、確かに言葉も何もわからない相手のために命を懸けて戦うのは利口ではない。それに、自分はともかく、王女であるシティアの命はそんなに安くない。
 不穏な空気を感じて、ユウィルが口を挟んだ。
「シティア様、そんなこと言わずに助けてあげましょう」
「そうね。ユウィルがそう言うなら」
 先程までの話は何だったのか、あっさりとシティアが折れた。クレイドは納得のいかない顔をしたが何も言わなかった。シティアがどれだけユウィルを愛しているか、ここに来てから十分理解している。
「で、行くのはいいけど、あなたたち、大丈夫なの?」
 シティアが半眼になると、クレイドは元気よく立ち上がって見せた。ユウィルも笑顔で立ち上がり、レドリも無言で剣を振る。
「王女」
 不意にそれまで黙っていたタクトが口を開いた。シティアが怪訝な顔をすると、タクトは淡々とした口調で退路の確保を提案した。行く前に退却用の魔法陣を作るというのだ。もちろんシティアに異論はなかった。
 タクトとユウィルがまるで踊るように軽やかに巨大な魔法陣を作るのを、シティアは真剣な瞳でじっと見つめていた。そしてようやく描き終わると、低い声で厳かに言った。
「サリュートとリアはここに残って。二人じゃ危険だから、ユウィルもここにいて。城には私とタクトとレドリとクレイドの4人で行く」
 唐突なその発言に、リアはひどく驚いて思わず口を開いた。だが、言葉は出てこなかった。
 実際、激しい戦いにでもなれば自分は役に立たないどころか、足を引っ張るかもしれない。現にサリュートなど、シティアと離れたくないだろうに、その提案に対して何も言おうとしなかった。それに、正直なところ歩くのも容易でないほど疲れている。
 リアは唇をかんで頷いたが、シティアを誰よりも愛する少女は納得しなかった。
「嫌です! あたしはシティア様と一緒に行きます!」
 顔を赤くしてユウィルが叫ぶように言った。実際それは悲鳴に近かった。
「ダメよ。これは命令よ」
「そんなの知りません!」
「ユウィル!」
 シティアが強い口調でたしなめると、ユウィルは泣きそうな顔になった。シティアは困った顔で言った。
「二人を守るために誰かは残らなくちゃいけないの。この陣の見張りもしてほしいし」
「それならタクトさんが残れば……」
「あなたは治療の魔法が使えないでしょ? それにあなたは疲れてる。タクトはまだ十分戦える体力を残してる。わかって、ユウィル。私があなたを置いて行きたいはずがないでしょ?」
 ユウィルはとうとう泣き出したが、聞き分けの悪い子供ではなかった。シティアはしばらく愛する少女を抱きしめ、その髪をなでていたが、やがて立ち上がって城に向き直った。
「さっ、じゃあ悪い連中を潰しに行きましょう。あっ、その子の味方を除いてね」
 慌てて付け加えたシティアに、クレイドもレドリも苦笑した。そもそも本当に相手が悪い連中なのかも怪しいものである。向こうからしたらこちらが侵略者かもしれない。だが、女の子が牢に入れられていたのは事実だ。
「なんだかよくわからんが、お前の望むようになるといいな」
 クレイドがそう言いながら女の子の頭をぐしゃっとなでた。女の子は困った顔をしたが、やがて顔を上げて何かを言った。どうやらお礼のようだった。
「しかし、無理はしないでください。繰り返しますが、その子はもちろん、我々のために命を捨てるような真似もしてはいけません」
 立場は下だが、年上らしい、そして小隊長らしい威厳をもってレドリが忠告すると、シティアは真摯な瞳で頷いた。それを見て安心するようにレドリとサリュートは頷き合った。
「じゃあ、行きましょう。ユウィル、何かあったら二人を守ってね」
「はい、行ってらっしゃい。もう操られたりしちゃダメですよ?」
 シティアは苦笑してから鋭い瞳で城を見据えた。
 まるで氷で出来たような青と紺の建造物は、シティアたちを待ち受けるかのように静かに佇んでいた。

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