「なんだ?」
俺は長い探検家生活の習慣からか、すぐに起き上がって周囲を見回した。敵が来たらすぐに対応しなければならない。眠気は完全に覚めていた。
何か長い夢を見ていたような気もするが、よく思い出せなかった。朝起きた瞬間にそれまで見ていた夢を忘れるなどよくあることだ。俺は気にしなかった。
「おお、先にお前が気が付いたか!」
俺の顔を覗き込みながら、大男ががははと笑った。
隣を見ると、ミランが小さな寝息を立てて眠っている。
ぐったりした様子でアームダンが言った。
「すいません、エリアスさん。いくら白魔法が使えても、あれを完治できるほど魔力も体力もないのです」
どうやら彼は限界まで少女のために頑張ったようだが、彼女の受けたダメージはそれで治るようなレベルではなかったらしい。
「いえ、十分です。本当にありがとうございました。
俺は軽く頭を下げてから、ミランの髪を撫でてやろうかと思った。けれど、すぐに思い直す。
今はそんなことをしている余裕はなさそうだった。
周囲の黒い靄はすっかり晴れている。どうやら俺が剣を抜いたことで、少女の妄執は晴れたらしい。
ただ、その代わりに地面が引っくり返るほど揺れ、鍛えられた者でなければ歩くのはおろか立っているのも難しそうだ。
「どうやらあの恨みがここを支えていたみたいだな」
「崩れるのか?」
俺が聞くと、インタルが腕を組んで大きく頷いた。
クレスが悲鳴を上げる。
「何平然としてるんだよ! 崩れたら死んじゃうんだぞ?」
アームダンも険しい顔をしていた。
ふと俺たちの入ってきた方向を見ると、インタルが降りてきたときに付けた縄は落ちてしまっている。いや、それどころかそちらはすでに崩れ、完全に退路が断たれていた。俺が置いてきた荷物は、インタルが持ってきてくれていたらしい。
とりあえず俺はほっと息をついた。
「ともかく、お前、こいつを起こせ」
「は?」
いきなり言われて、俺は素っ頓狂な声を上げた。
ちらりと少女を見ると、この揺れにも関わらず眠ったままだ。まさに死んだように眠っているが、寝息は安らかで充実した眠りであるのがわかる。
「俺たちがどんなに揺らしても叩いても、まったく起きようとしない。もうお前が起こすしかないってことだ」
俺はインタルが少女を起こそうとしている光景を想像して蒼ざめた。
「お前が揺すっても叩いても起きなかったものを、どうやって俺が起こすんだ!?」
悲鳴じみた声を上げると、大男はおっさん然としたいやらしい笑みを浮かべた。
「眠り姫を起こすのは、王子様のキスと決まっている。ほら、早くやれ」
「…………」
俺はあきれた。この非常事態に、よくそんなくだらないことが言えるものだ。
だが、周りと見るとクレスもアームダンも期待するような眼差しで俺を見つめていた。
「インタルさんがあれだけやっても起きなかったのです。恐らく何か神秘的な力が必要なのでしょう」
大真面目にアームダンがそう言って、インタルは大きく二度頷いた。
クレスはただ俺がミランにキスするところを見たいだけらしい。目を大きく見開いて顔を真っ赤にしている。
「早くしないと死ぬぞ?」
俺はあきらめた。
「ミラン、起きろ!」
試しに大きく揺さぶり、頬を叩いてみたが、確かに起きない。よくよく見ると、頬が真っ赤に腫れていた。
俺はインタルを睨め上げた。
「お前、どれだけ叩いた?」
俺はやや語調を強めたが、インタルはそれを平然と受け流し、やや怒った様子で言った。
「いいからお前はさっさとミランを起こせ。死にたいのか?」
もはや、俺に発言権はなかった。
「そんなもんで起きたら、魔法師はいらないっての」
俺はぶつぶつ文句を言いながら、そっと少女の両肩を持った。
いざ顔を近付けると無性に恥ずかしくなった。なんといっても、ギャラリー付きだ。なんで俺がこんなことをしなくてはいけないのか。
「ミラン……」
囁くように呼びかけると、俺はそっと少女に唇を合わせ、それを押し付ける。
少女の唇はとろけるように柔らかかった。
それから彼女の唇の形をなぞるように舌先で舐めると、少女は「ん……」と小さな声を上げて目を開けた。
マジかよ……。
「エリアス……」
少女はとろんとした目でそっと俺の首に腕を回し、舌を絡めてきた。どうやら状況をまったく理解していないらしい。
ちらりと横目で見ると、インタルはにやにやし、アームダンは頷き、クレスは興奮して俺たちを見つめていた。
ミランはもう一度俺の名前を囁くと、わずかに角度を変えてぐっと舌を俺の口の中に押し込んできた。
俺はものすごい幸せと、同じくらいの恥ずかしさに駆られて慌てて少女を引き剥がした。
「エリアス……?」
少女は怪訝そうに俺を見上げてから、ようやく夢から覚めたらしい。
周りを見て小さな悲鳴を上げると、これでもかというくらい恥ずかしそうに顔を両手で覆って身を丸くした。
「な、なんでエリアス、こんなところでキスするの!? 信じられない!」
俺が答えるより先に、インタルが未だににやにやした笑みを貼り付けたまま少女の腕を取った。
「まあ理由は俺が後で話してやる。神殿が崩れる。早くなんとかしてくれ」
表情はともかく、目は真剣だった。クレスも気が付いたらしい。彼は平然としていたわけではなく、平然としているように見せかけていただけだということに。
彼の言葉に、少女もようやく気を取り直したようだ。
「私、助かったの……?」
「それも後で話す」
少女はこくりと頷いてから、周囲を見回した。そしてすぐに状況を理解して立ち上がった。
刹那、「うっ……」と呻いて腹部を押さえる。やはりまだ完全ではないようだ。
それでも構わず、少女は斜め上を見上げると、そこに魔法陣を描いた。十八番だ。
光の線が真っ直ぐ天井に突き刺さった。天井にあのボールをぶつけた粘土のような跡が付き、ぱらぱらと破片が落ちてきた。
「基本魔法で壊せるのか?」
思わず俺は尋ねた。もしそうだとしたら、少女はここに来る時、何も上位魔法を使う必要はなかったはずだ。
天才は次の魔法陣を描きながら答えた。
「今ならね」
どうやらあの赤毛の少女の妄執が、この神殿をあらゆる意味で維持していたらしい。
もう一撃放つと、あっさりと天井を突き破って、大量の砂が落ちてきた。なるほど、真上に穴を空けていたらあれに押し潰されていたかも知れない。
俺は少女が斜め上に陣を描いていた意味を知って、その聡明さに舌を巻いた。
「一人ずつ運ぶから」
言いながら、少女は浮遊魔法を使った。
「アームダンさん、つかまってください」
「どうすればいいですか?」
つかまると言われても、どうすればいいかわからずに彼は首をひねった。手をつないでも、少女の肩の力では学者を支えるのは不可能だ。
ミランは無表情で答えた。
「しがみついてくだされば結構です。遠慮しないで下さい」
アームダンは一度頷くと、「失礼します」と言ってから少女の身体にしがみついた。
少女は彼を地上に運ぶと、次にクレスを運んだ。なんだか顔を真っ赤にしているクレスが面白くて、俺はインタルと顔を見合わせて笑った。
ミランは俺たちのところに戻ってきて、表情を曇らせた。どうやら、もはや二人を運んでいる時間がないようだ。俺はまだしも、インタルの巨体は、少女の力では上に運べるかすら怪しい。
「どうする?」
俺が尋ねると同時に、神殿が大きな音を立てて崩れた。通路の方はもうダメなようだ。
ミランはキッと上を見据えて、素早く陣を描いた。キラキラと輝くそれは見覚えのあるものだった。
エルザーグラの森の中で、エルフの少女を助けるために盗賊たちに使った風の魔法だ。
どうやら、崩れてきた瞬間に魔法を叩き込むつもりらしい。
「ミラン! 上の二人を巻き込まないか!?」
インタルが息を飲んだ。
少女は神妙に頷いた。
「大丈夫。いつ底が抜けるかわからないから、できるだけ遠くに逃げるよう指示してきた」
「上出来だ」
インタルは満足そうに頷いた。
崩壊は通路側から始まり、あっという間に神殿すべてを飲み込んだ。
まるで空が落ちてくるように巨大な石や土が落ちてくる。
ミランの魔法が迸った。空気を切り裂く轟音。砂が弾ける。
だが、俺たちの真上に落ちてきた巨大な石の塊は吹き飛ばせなかった。
蒼ざめる少女と、対応できずに立ち尽くす俺。
インタルがそんな少女の背中を蹴り飛ばし、すぐに自らも飛び退いた。素早い動きだ。
ミランは苦痛に顔をゆがめながら、そのまま俺を巻き込んで吹っ飛んだ。
俺は何がなんだかわからず、ただしっかりと少女を胸に抱き入れるとそのまま硬く目を閉じた。とにかくこの少女だけは守る。
やがて、天地がひっくり返るような音がやみ、俺は目を開けた。
ミランの茶褐色の髪の向こうに、青空が広がっていた。周囲には土の壁があって、俺たちは丁度大きな穴の底に横たわっていた。
「無事か?」
そう聞く前に、少女の弱々しい声がした。
「私って、不幸かも知れない……」
俺は苦笑しながら、そっと頭を撫でてやった。
俺とクレスを助けては黒い塊に殺されそうになり、今もインタルに蹴り飛ばされた。
笑ってはいけないとは思いながらも、笑わずにはいられなかった。
「ありがとな。お前がいなかったら、俺は何度死んでいたかわからない」
ミランは小さく頷いてから、顔を上げてにっこり微笑んだ。
遠くからクレスの駆けてくる足音が聞こえてきた。
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