棚の中を調べてみたが、変わったものは出てこなかった。もっとも、クレスは中から羊皮紙一枚出てくるだけで驚きに目を丸くしていたが。
開け放たれたドアの向こうには通路がある。すえた匂いは立ち込めているが、昨夜聞こえた呻き声のようなものは聞こえない。インタルの言った通り、昼間は何も出てこないのだろうか。
慎重に通路に出て松明をかざすと、すぐそこに2体の白骨死体が転がっており、後ろでクレスの息を飲む声がした。恐らく、人間のこういう姿を見るのは初めてなのだろう。
俺から言わせてもらえば、白骨などやさしいものだ。地面から腐った人間の顔面が出てきたときは、その場で嘔吐して3日間肉が食えなかった。
できることなら俺は二度と体験したくないが、クレスには一度くらい体験してもらいたいものだ。
通路には今俺たちの出てきたものと同じような部屋が他に5つ存在した。いずれのドアも開け放たれている。
通路の片方は突き当たりになっており、もう片方は土砂に覆われていた。恐らくそれが『アミラスの怒り』によってこの神殿を押し潰した土砂なのだろう。
「低すぎる……」
ふとインタルが呟いて、俺たちは声の主を見た。
大男はじっと突き当たりにある土砂の壁を見つめながら腕を組んだ。
「恐らくあそこに階段があったんだろう。ここは2階か、あるいはそれ以上に高い部屋だったはず」
なるほど、確かにこの構造は不自然だ。こんな無機質な部屋が6つあるだけの神殿など考えがたい。さしもの頑丈な建物も、やはりすべてが無事だったわけではないようだ。
不意に、依頼主が土砂を指差して楽しそうな声を上げた。
「あの土砂、不自然だとは思いませんか?」
言われて、俺は彼の指差す方を見た。
大量の土砂が両横の壁を破壊し、そこで止まっている。今俺たちが立っている場所が無事であるというのは確かに不思議な話だが、不自然ではない。
仲間の顔を見回すと、約一名を除いて、俺と同じように首を傾げていた。
約一名が落ち着いた声で言った。
「あっちは、海がある方向なのよ」
「それが、どうしたんだ?」
確かに彼女の言う通り、土砂の壁は今俺たちが立っている場所より海側に存在する。
クレスはもちろん、インタルも彼女の言いたいことがわからないらしく、不思議そうに少女を見つめていた。
アームダンは満足げに頷いてから、「さすがはミランさんです」と嬉しそうに言った。学者は難しい話をするのが趣味だと聞いたことがあるが、さしずめ趣味仲間ができたような喜びだろうか。
「海側から大量の土砂が押し寄せてくるのはおかしな話でしょう。それが『アミラスの怒り』の難しさであり、不思議さであり、面白さでもあるのです」
「ああ、なるほど」
俺とインタルの声がハモった。クレスはまだわからないらしい。
「山より海の方が土地が低いから、この土砂が山の方から海の方に流れてきたならわかるけど、逆はおかしいでしょ?」
ミランに説明されて、ようやくクレスも理解できたようだ。今さらだが「おお」と感嘆の声を洩らした。
俺たちは他の5つの部屋も調べてみた。すべて同じ造りで、いくつか死体は見つかったが、大したものは出てこなかった。一応、多少なりとも骨董価値のありそうなものはもらっておいたが。
服を着たままの白骨死体を足の先でつつきながら、クレスが呟くように言った。
「この人たちは、餓死したのかな……」
生き埋めになって、何日も苦しみながら死んだのだろうかと、クレスは悲しそうな顔をした。なかなか心優しい少年だ。
そんなクレスをちらりと見て、依頼主が静かに首を振った。
「苦しんだかどうかはわかりませんが、死因は餓死ではなく、窒息死でしょう」
「窒息?」
俺たちは首を傾げて学者を見た。
「窒息って、首を締められたり、口を押さえられたりしたときになるやつだろ? これだけの空間があって、窒息なんておかしいよ」
クレスが疑問をぶつける。
確かに、窒息とは息ができなくなったときに起こるものだ。俺も不思議に思って学者に目を遣った。
回答は、仲間の少女から与えられた。
「完全に密閉された空間に生き物を入れると、餓死するより早く死ぬことが確認されてる。空中には私たち人間が必要とする見えない成分があって、それは無限にはなくて、完全に密閉された空間にいるとその内その成分がなくなって死んじゃうのよ」
初耳だった。
「もっとも、窒息が先か餓死が先かはわかりませんが、飢えて死ぬより意識が朦朧として死んでいく方が楽でしょうね」
なんとも薄気味悪い、ぞっとする話だ。
「それで、今ここにはその成分は存在するのか?」
どちらかというと無骨で、あまり科学的ではない大男が不安げに尋ねた。この男にしては珍しいことだ。
アームダンが彼の不安を取り除くように大きく頷いた。
「大丈夫です。さっき穴を空けましたし、500年の間にその成分もどこからともなく入り込んでるでしょう。今、我々が息苦しさを覚えずにここにこうしていられるのですから」
俺たちは、とりあえずその答えに満足して窒息のことは忘れることにした。
6つある部屋を隈なく調べてみたが、隠し扉をはじめとした他の場所への入り口は見つからなかった。
外への窓はあったが、もちろんその向こう側は土砂に覆われている。不思議な光景だった。
「方法が3つある」
初めの部屋に集まって、インタルが声を上げた。俺たちは円を組んだ状態で彼を見つめる。
大男は紙に簡単な地図を描いた。今俺たちが見てきたものに階段を描き、その反対側、突き当たっていた方に部屋を意味すると思われる四角を書いた。
「普通、階段は建物全体の入り口側にある。となると、1階にも同じような通路があって、その突き当たりにこの神殿のメインフロアとも言うべき聖堂があるはずだ」
俺たちは大きく頷いて先を促した。クレスはしきりに感心したように首を振っている。
「ひとつ、階段を掘り起こす。ひとつ、ここに通路に穴を空けて下の通路に出る。ひとつ、突き当たりの壁に穴を空けて聖堂に出る」
「確実なのは、通路でしょうね」
アームダンが地図を指差しながら言った。
「今の話が正しければ、壁に穴を空けると、聖堂に2階か、あるいはそれ以上の高さから出ることになります」
「だが、それは通路でも同じことが言える。この建物が2階建てだったら高さは変わらないし、それ以上だったら穴を空ける回数が増える」
俺が言うと、依頼主はミランに問いかけた。
「穴を空けるのは疲れますか?」
少女は静かに首を振り、「時間はかかるけど、疲れません」と答えた。しかし、すぐに付け加える。
「ただ、万が一何かあったとき、たくさんの穴を経由する方が逃げるのに時間がかかります」
「なるほど……」
「それに、土砂は空から降ってきたわけでもない限り、下に行けば行くほど奥まで堆積しているでしょう。壁を破るほうが確実です」
正直、そこまでは考えてなかった。さすがは学院首席の少女だ。俺は感心して頷いた。
「では、もしインタルさんの図が間違っていて、壁の向こうに何もなければ?」
アームダンの問いかけに、少女は幼い瞳でにっこり笑った。
「そのときは下に穴を空けるだけです」
かくして、俺たちは先程の通路の突き当たりに立った。
ミランはしばらく壁の表面を手でなぞっていたが、やがて残念そうに首を振った。
「どうしたんだ?」
俺が聞くと、ミランは壁の凹凸を指先でなぞりながら答えた。
「魔法陣は、平らなところにしか描けないの」
そういえば、魔法陣は正確に描くことが最も難しいと言われている。正確でなければ発動しないのであれば、こういう場所に書くのは不可能だろう。
「じゃあどうするんだ?」
インタルの問いかけに、ミランは小さく笑った。
「ぶっ壊す」
俺たちは顔を見合わせて苦笑した。
ミランは俺たちを10メートルほど下がらせると、自分も同じだけ下がり、突き当たりの方を向いた。
「ミランさん。壊すのはいいですが、神殿自体が崩れて生き埋めっていうのは勘弁してくださいね?」
恐る恐るという感じで、アームダンが声をかけた。
俺は思わず首を縦に三度振り、そっとミランの肩に手を乗せた。
「生きて帰ろうな?」
「…………」
ミランはふてくされたように俺を見上げたが、何も言わずにもう一度壁の方を見た。
これだけ言ってなお実行するのだから、ミランには神殿全体を崩さずに穴を空ける自信があるのだろう。
こうなれば信じるしかない。
ふと隣を見ると、クレスが俺の服をぎゅっと握って、息もせずにミランの背中を見つめていた。まだ俺ほどの信頼は置けないらしい。
「大丈夫だ、クレス。たぶん……」
「たぶんって……」
クレスが泣きそうな顔をした。
俺が小さく笑いながら逆隣を見上げると、インタルは唇を引き結んで少女を見つめていた。その表情からは、あまり余裕が感じられない。
「お前も信用してないのか?」
俺が問いかけると、インタルは大きく首を横に振った。
「信用してなければ止める。あのミランの魔法を初めて見るんだ。緊張もする」
「そう……なのか?」
俺は驚いて少女の背中を見た。
あまりにも身近にいるためにほとんど意識したことがないが、やはり彼女は有名人なのだ。彼女の魔法は、有名な吟遊詩人の詩を聞くのと同じように、見られるというだけで価値があるのだろう。
ミランは背後での俺たちのやりとりなどまるで聞こえていないように平然としたまま、すっと腕を掲げた。そして大きく円を描くと、その中に素早く線を織り成していく。
魔法陣がキラキラと輝き出した。魔力の持つ者が正しい陣を描いた時にだけああいうふうに線が光を帯びるらしい。
あっと言う間に少女の陣は完成した。なんとなく見覚えのある陣。あの光の魔法だ。かかった時間からして、アレンジ版ではなく、オリジナルの方だろう。
ミランは事も無げにそれを放った。
陣から光が迸る。
衝撃音が轟いた。だが、振動はない。
改めて壁を見てみると、まるで粘土にボールをぶつけたように丸く凹んでいた。だが、それだけだ。
「結構硬い」
つまらなさそうにそう言うと、ミランは再び同じ陣を描き始めた。
「つ、疲れないのか?」
インタルが心配そうに問いかける。
確かに、穴掘りをしていたとき、あの魔法師の男は魔法を放つたびにえらく疲れていたようだった。
ミランの魔法はこの先何度必要になるかわからない。こんなところでへたばってもらっては、いざという時に困る。
「ミラン、無理はするなよ」
俺もあの魔法師の男を思い出してそう声をかけた。少女は陣を描きながら笑って言った。
「疲れるのは陣を描くのに精神を集中させたり、無駄な力が入ってるからよ。エリアスもインタルも、ぶらぶら手を振り回していても、別に疲れないでしょ?」
「……つまり、ミランちゃんはどれだけでも魔法を使えるってことか?」
ごくりとインタルが息を飲んだ。
「魔法は、使うこと自体で消耗するものは何もないの。疲れて腕が上がらなくならない限り、何度だって使うことができる」
キラキラと光を放ち、魔法陣が虚空に美しく輝いた。ミランは軽く振り向いて、にっこりと微笑んだ。
「私は、魔法陣を描くことを難しいって思ったこと、ないから」
先程よりも強い光を放ち、魔法が壁にぶち当たった。
向こう側は見えないが、土砂が現れたわけではない。かなり分厚い壁の向こうに、何かがある。
それを確信しているように、ミランは再び腕を上げた。
「敵じゃなくてよかった……」
インタルの呟きに、俺は無言で頷くしかなかった。
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