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魔法師ミラン3 妄執の神殿

 神殿の方からそれはやってきた。
 黒い壁のような巨大な生き物だ。滴り落ちる水滴を逆さまにしたような形だ。焼けて膨らんだ餅と言ってもいい。
 5メートル、いや、10メートルくらいだろうか。
 それはゆっくりと俺たちの方に近付いてきた。細部まで確認できるところまでくると、それが例の黒い球の塊であることがわかった。
「逃げろ!」
 誰かが言って、俺たちは駆け出した。
「ミラン、あれを倒してよ! ミランならできるだろ!?」
 逃げながらクレスが俺たちにだけ聞こえる声で言った。泣きそうな顔をしている。
 ミランはちらりと彼を見て、首を振った。
「たぶん、根本的に解決しないと、あれは無限に溢れてくる」
「根本的? どうすればいいんだ?」
 インタルが真顔で問いかけた。ミランはやはり首を振って溜め息を洩らした。
「あれが何かもわからないから……」
 俺たちが背後を振り返った時、隣で声がした。
「あれは生き埋めにされた人々の怨念かも知れませんね」
 依頼主だ。どこから話を聞いていたかはわからないが、ミランのことは言及してこない。
「怨念なんてどうやって倒すんだ!?」
 クレスが息を切らせながら声を上げる。肉体的に疲れているわけではなく、精神的にまいっているようだ。彼にはショックな出来事が重なりすぎている。
 もっとも、俺も怨念などといったものを相手にしたことはなかった。人は死んだら終わりだと思っている。そもそも幽霊とか怨念とか、そういうものの存在を俺は信じていなかった。
 今も依頼主に言われても半信半疑だったが、他に有力な説がない以上、とりあえず信じるしかないだろう。
 アームダンはちらりとクレスを見ると、人当たりの良い笑みを浮かべた。
「夜は彼らの領域です。朝まで逃げましょう」
「あ、朝まで……」
 クレスは絶望的な呟きを洩らしたが、俺を含めた他の3人は助かったなと互いに顔を見合わせて頷いた。
 夜明けまでは後1時間くらいだ。少なくとも1時間逃げ続ければ助かる。それは、まったくどうしていいかわからない状況より遥かにましだ。
 もちろん、アームダンの言っている内容が正しければという前提付きだが。
 俺たちは逃げながら戦い、戦いながら逃げた。
 黒い塊は少しずつその身体を大きくしていき、逃げ遅れたものを飲み込んでいった。
 いつの間にか逃げているのは10人ほどになっていた。朝陽まではあと30分。
 その時、走り疲れたのかミランが足を滑らせた。
「きゃっ!」
 足を止めて振り返ると、運悪くすぐそこに黒い塊が迫ってきていた。大きい。15メートルはある。
 俺は咄嗟に駆け出していた。他の者の息を飲む音が聞こえた。
 ミランは仰向けになり、魔法を使おうとしている。だが、それよりも黒い塊が彼女を多い潰す方が早かった。そして、それよりも早く彼女の許へ滑り込む俺。
 ミランの隣に寝転がると、俺は魔力剣を突き上げた。巨大な黒い塊はそれでひるんだのか、ほんのわずかに動きを止めた。
 ミランが魔法を完成させるには、その一瞬で十分だった。殺された魔法師は知らないが、彼女はどんな状況であっても魔法陣を失敗したりしない。
 思わず固く閉じていた目を開いたが、目の前は真っ暗で何も見えなかった。静かだ。
「ミラン……?」
 小さく呼びかけると、隣から少女の声がした。
「大丈夫。私が押さえてるから。このまま朝を待とう」
 どうやら今俺たちは、黒い塊に覆われているようだった。だが、頭の天辺から足の先まで、まるで重圧を感じない。ミランが何かドーム状の魔法で包み込んでくれているらしい。
 黒い塊はまったくどこうとしない。考えようによっては幸運だった。これでインタルたちは逃げることができるだろう。
 クレスは俺とミランを助けようとするだろうが、インタルはそれを止める。止めて、今ごろ遠くへ逃げてくれているはずだ。
「ごめんなさい……」
 不意にミランが悲しそうな声で謝ってきた。
「何が?」
 俺が聞き返すと、ミランは心底申し訳なさそうに言った。
「私が勝手に行動して、こんなことになっちゃって。人もたくさん死んじゃったし……私って……ほんと、ダメだね……」
 少女の声に涙が混じった。嗚咽が洩れる。
 俺は努めて優しく言葉を投げた。
「俺はミランに何度も助けてもらってるし、いつも感謝している。だから、そんなに自分を責めなくてもいい」
「……本当に? 私、足手まといになってない?」
「バカ。そんなこと、あるわけないだろ」
 俺はそっと身体を横に傾けると、少女の小さな身体を抱きしめた。
「もっと俺や仲間を信じろ、ミラン。俺たちはお前を必要としているし、お前も俺たちを必要としてくれればいい。過去のことは知らないけれど、全部一人で抱えなくてもいいんだ」
「エリアス……ごめん……。ありがとう……」
 ミランは大きな声で泣いた。本当は俺に抱きつきたかったかも知れない。けれど少女は今、魔法を維持するために両手を上に突き出していたから、だから替わりに俺が思い切り強く抱きしめてやった。
 ミランは泣き続けていた。

 朝の到来とともに、黒い塊は見る見る溶けていき、初めからそこには何もなかったかのように消滅した。
 俺はずっとミランを抱きしめたままだったが、黒い物体の隙間に光が見えると、慌てて身体を離した。誰かに見られたらと思ったが、幸いにもそこには誰もいなかった。
 インタルか、もしくはあの赤毛の戦士の指示で、皆遠くへ逃げたのだろう。
「助かったね」
 ミランがそう言って、俺が隣を向くと、唇に柔らかなものが触れた。
「ミラン……?」
「助けてくれたお礼」
 頬を赤らめ、少女は立ち上がった。周囲を見ると、無残に押し潰された死体が3つほど転がっていた。
 ついさっき俺のことを疑い、インタルに俺とミランが恋人同士だと言われて真っ赤になっていた男も死んでいる。
 ミランは顔を険しくした。また自分を責めようとしているのかも知れない。
「ミラン、気にするな。あいつらの実力が足りなかっただけだ。生き残ってるヤツもいるんだからな」
 俺がそう声をかけると、少女はこくりと頷いて微笑みを浮かべた。完全に吹っ切れたわけではないだろうが、一人で背負っていた重荷は下ろしたように見える。
 しばらく立ち尽くしていると、やがて向こうから生き残ってるヤツらがやってきた。クレスもインタルも無事のようだ。
「おお! お前ら、生きていたのか!?」
 インタルがからかうように陽気に笑った。だが、その顔には底知れない安堵があった。さしもの豪快な探検家も、今度ばかりはダメかとあきらめていたようだ。彼は、まだミランの魔法を見たことがない。
 クレスは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら走ってきて、そのままミランの胸に飛び込むとわんわん泣き出した。ミランは困ったように俺を見たが、俺が頷くとそっと少年の髪を撫でた。
 パーティーを組む前は反目し合っていた二人だが、このふた月の間にだいぶ心を開いたようだ。
「お前ら、よく無事だったな」
 驚いた顔で近付いてきた赤毛の戦士に、俺は剣を振って笑った。
「この剣に救われた」
 ミランの魔法は秘密にしておく。男は深入りせずに頷いて見せた。違うパーティーといえど、ひと月ともに暮らしてきた仲間だ。生きていたことを喜んでくれているのだろう。
「これで、無事だったのは9人か……」
 俺は赤毛につられるように周りを見てみた。
 残っているのは、俺たち4人と依頼主、そして赤毛の戦士と他に3人だった。3人の内の2人は怪我をしており、戦えるような状態ではない。
「どうしますか? アームダンさん」
 戦士が尋ねて、俺たちは依頼主を見た。
 青髪の学者は俺たちをぐるっと見回してから、逆に質問してきた。
「もし私が続けたいと言ったら、皆さんはどうしますか?」
 アームダンの言葉に、3人の内の怪我をしてないヤツが即答した。
「俺は下ろさせてもらう。生命あってのものだからな」
 威張って言うことではないが、彼の意見は正しい。手に負えないと思ったら素直に引くのも大切なことだ。
 他の2人も同意のほどを示している。そもそも戦える状態ではないので、当然だろう。
 赤毛の戦士はしばらく考えてから、彼らと同じく首を横に振った。
「仲間を全員殺されちまった。これである意味自由になったし、仇討ちをしたい気持ちはあるが、次にあれが出てきたら生き延びる自信がない」
「そうですか……」
 アームダンはがっかりしたように項垂れた。恐らく彼は、赤毛の戦士に一番の信頼を置いていたのだろう。最年長だし、当然と言えば当然だが。
「あなたたちはどうしますか?」
 アームダンは気を取り直して俺たちを見た。
 俺は答える前に一度仲間の顔を見回した。俺一人で決定できる問題ではないと思ったからだ。
 ところが、ミランもクレスもインタルも、皆俺を見つめるだけで何も言わなかった。どうやら俺の判断に任せるらしい。
 俺は苦笑したが、彼らに意見を求めるのはやめておいた。この信頼は受け止めておこう。
 こうなると、やめるのが吉だ。だが、リスクのない冒険はないし、リスクなくして金儲けも有り得ない。
 こうして神殿が出てきて、他のパーティーが退いた今、俺たちは大金を得ることができる可能性に一歩近付いたのだ。
 それは不謹慎な話かも知れないが、奇麗事だけでは金は手に入らない。
「もう少し……アームダンさんの知ってることを話してもらって、一度神殿を見に行って、それから決める」
 俺がそう言うと、依頼主は「いいでしょう」と頷いて立ち上がった。
 俺たち5人は、赤毛の戦士に別れを告げて神殿に向かって歩き始めた。

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