不思議とは、人間の手には為し得ないこと、理解できないもの、在って欲しくない、信じたくない事象のことである。それらはすべて人間を基準として図ったものであり、世界の側からすればそれらは当然として存在する。
人間は空気の無い場所では生きられないがゆえに、海には特に不思議が多い。例えば海の底には、この大陸より遥かに広大な大地が広がっているが、見た者は誰一人としていない。そもそも本当に海底というものが存在するかも定かでなく、海の底は抜けており、海水が下の世界に滝のように注いでいると唱える者もある。
また、海には人間とは逆に水が無ければ生きられない、人間のような知的生命体が存在し、海底にいくつもの街を作って生活を営み、時には争っていると唱える学者も存在する。
しかし、どちらも仮説に過ぎず、また証明もできないことから誰にも相手にされていなかった。
ところが近年、ある事件から後者の説が見直され始めた。イスィキート東の湾より様々な未知の生物が現れ、ナナ・テイルスの街を襲撃したのである。
鳥のような羽根を持って飛翔する巨大な魚や、長い首を持つ竜のような生き物、その他、もろもろ。それらが群れを成し、ある種の戦略を持つ攻撃を仕掛けてきたことから、人々は海中に<知性のある何か>の存在を認めた。
三日間にも及ぶこれらの攻撃を、イスィキートはナナ・テイルスの軍隊をもって防ぎ切り、彼らを海中に追い返した。
イスィキートはこの件をすぐに隣国ティユマンに伝え、しばらく両国の漁業は禁止されたが、彼らは二度と現れることはなく、漁業もすぐに再開された。
海に静寂が戻った。しかしそれは未解決の恐怖を孕んだ静寂だった。
未知を未知のままにしておくことを、人間の探究心は許さない。ましてやそれが、放置によって危険を伴うものであるならなおさら、人はそれについて研究する。
事件の後すぐ、ナナ・テイルスの近海に浮かぶネトン島に、一つの施設が建設された。
施設の目的は国民にも告げられていたが、上陸するのは禁止されており、島は軍隊によって厳しく監視されていた。
その目的とは、もちろんナナ・テイルスを襲撃した生物の研究である。先の戦いで捕獲した何体かをそこに閉じ込め、イスィキート、ティユマン両国の学者が協力して研究を進めている。
研究の成果は、その生き物を軍事目的に使用する意思はないことを示す意味も込め、ティユマンにはもちろん、ニゲルヘイナなどの近隣諸国にも伝えられていた。未知なる存在を前に人間同士で争っている場合ではないと考えたのだ。
これまでのところ、彼らの中には水陸どちらでも生きられるものがある、互いに意思の疎通を図る手段──人間でいうところの言語のようなものを持っている、陸上の生物同様何かを食べないと生きられないなどが挙げられている。要するに、上級の魚やクジラのようなものということである。
人間は人間以外のあらゆるものに不思議を見出すが、人間それ自体ついて疑問を持つことは少ない。
しかし、魚の中に知性のある上級の魚がいるのであれば、人間にも普通の人間にはない能力を持つ者がいても不思議ではない。
空を飛ぶ者、無から火を作り出す者、透視の出来る者。事実世界にはこれらの能力を持つ人間が時折現れるのだが、人は彼らを異端視し、悪魔と呼び、その能力を魔法と蔑み、恐れ、迫害する。
だが、どれだけそれを否定しようとも、事実が変わるわけではない。もっとも、彼らのその能力は先天的なものではなく、外的要因、特に脳に強い衝撃を受けた場合に発生することが多く、その意味では異端とされるのも納得できないでもないが。
かつて頭を矢で射抜かれてなお生き延びた男がいた。彼はそれにより未来を予知できる能力を身につけた。彼の住んでいた街の城主が軍事目的で彼を登用したが、彼は城主の息子の死をほのめかしたために処刑された。その息子はひと月後に急な病で死んだという。
この男などは人間の可能性を示した典型例だろう。しかし人々は彼の予知を「偶然」の一言で片付けた。
人間による否定と迫害。
物心ついた時からすでにこの能力を持っていたが、やはりそれは後天的なものだった。
生まれた時へその緒が首に絡み、長い間呼吸ができなかったらしい。九死に一生を得たが、思えばこの能力はその時に備わったのだろう。ただ、無意識に使える類ではなかったので、幼少期は普通の人間と同じように過ごした。
十歳になるかならないかの頃、突然自らに備わった能力の使い方がわかった。
自慢げに使った結果は言うまでもない。友をすべて失ったばかりか、親にまで気味悪がられ、最後には自分から家を出た。
人間による否定と迫害への復讐。
当初はそのような大義名分を掲げており、事実それが最たる行動理由だった。しかし今となってはそれは建前に成り下がっている。
人間の混乱する姿を見るのが愉快である。認めよう、それが一番の理由であると。
昔はこうではなかった。だが、いつの間にか性根が捻じ曲がり、人が嫌がることに喜びを覚えるようになった。
何とでも言うがいい、思うがいい。あらゆる罵声は、多感な時期に克服している。
ちらちらと、灯りの揺れる島が見えてきた。研究施設のあるネトン島である。
見張りの灯りを避けるように、ナナ・テイルスとは反対側の陸地に船をつける。灯りは必要ない。発動語句を耳から脳に伝えるだけで、暗闇でもものが見えるようになる。
緩やかな上り坂になった林を抜けると、城壁のような高い壁が見えてきた。研究施設は三方をこの壁に囲まれ、一方が海に面している。壁の外から中の施設は見えない。
壁の上には見張りの兵士が何人か立っていたが、あまり真下の闇に注意している者はないようだった。実際、この高さでこの暗さである。見えてはいまい。
静かに壁まで歩み寄ると、冷たい石壁に触れた。呪句を囁く。手がすっと壁の中に溶け込んだ。
人工物を通り抜けられる能力、魔法。
内側に出る。施設は白い壁に平面の屋根をした巨大な直方体で、数少ない窓の様子から二階建てだと思われた。
施設の壁をすり抜けると、いきなり光に包まれた。闇に慣れた目には少々眩しい。
「な、何だ!?」
一呼吸置いて誰何の声。
運が悪かった。いや、良かった。そこはこの施設の管理室のようだった。五ヤード四方の部屋には棚が並んでおり、無数の書類が雑然と積まれていた。そして学者風の男二人と、警備の隊長格が三人。
先に動いた。一人の身体に触れ、呪句を唱えて力を込める。
男が崩れ落ちた。死んではいない。能力で眠らせたのだ。
「貴様!」
一人が剣を振り上げて走ってきた。速い!
だが、魔法にしか才がないわけではない。素早く身をかわすと、肌に触れて眠らせた。同じようにして、残りの三人も眠らせる。
再び静寂が落ちた。足元で眠っている五人を殺すのは簡単であり、そうした方が安全なのだろうが、そのままにして部屋を探る。人が死ぬのを見るのは楽しいが、自分の手を汚すのは好きではない。実際、三十年の人生の中で、誰かに刃物を向けたことは一度もなかった。
書類の束にはなかなか面白そうなことが書かれていたが、一個人が所有してもあまり有益に、楽しく使えるものではなかったので放置した。
金目のものは生きるために袋に詰め、それからマスターキーと思われる鍵束を取った。
通路に出る。足音を立てずに歩くのもかなり自慢できる能力だが、それは俗に言う「魔法」とは異なる。人が努力によって身につけられるものは魔法ではないのだ。
途中、何人かと擦れ違い、それらをすべて眠らせて先に進むと、水の流れる音とともに、前方に巨大な水路が見えてきた。
潮の香り。水路を辿っていくと、果たしてそこには檻があった。牢のように並んだ鉄格子。その向こうにはやはり格子があり、海に繋がっている。
檻の中には噂にしか聞いたことのない生物たちが閉じ込められていた。確かに、翼を持つ魚、巨大なカエルのような生き物、エラのある鳥、逞しい腕を持つカバ。
ずっと「上級」と考えてきたが、どちらかというと「特異」という言葉が当てはまるかもしれない。なるほど、人が魔法使いを見る目もこういうものか。
「勘違いするなよ。お前たちに味方するわけじゃない。ただ、お前たちの敵の敵になるだけだ」
言葉などわかるはずもないが、そう言ってから周囲をうかがう。彼らを海に放流するには、向こう側の鉄格子を外さなくてはならない。
鉄格子には彼らは入れるときに使ったと思われる扉があり、手持ちの鍵で開けることができそうだった。ただし、それには中に入って向こう側まで行く必要がある。海側から擦り抜けることはできない。つまり、彼らのすぐ脇を歩いて行かなければならないのだ。
最も確実な方法は、彼らと仲良くなることだが……。
「いいや、それは無理だ」
苦笑交じりに呟く。どう考えてもお友達になれそうにはない。
現実的なのは、彼らを一度眠らせてから向こうの錠を開けることだが、果たして催眠の魔法が効くかわからない。効かなければ一瞬にして殺されるだろう。
興奮した。生と死の狭間。
「命を賭けるんだ。相応の結果を期待するぜ」
思わず顔を綻ばせながら、すでに敵意を全開にしているそいつに近付き、ゆっくりと、錠を開けた。
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