しかし街の北側は壊滅的な状況で、兵士はもちろん、市民にも多くの犠牲が出た。被害は街だけにとどまるものではなかった。近隣の漁村や農村も攻撃され、多くが命を落とし、ほとんどが家を失った。
街門は最後までもちこたえたが、激しい歪みのために開かなくなり、修理することになった。もっとも、他の被害の前にそれは些細なことだった。
テリスの店は幸いにも街の西側にあったので、被害を免れた。あるいは、もしも北にあったとしたら、マリナは最優先で店を守っていただろうから、結局この店は無事だったわけだが。
戦いの後、マリナは三日ほど寝込んだ。しかしそれは単なる疲労によるもので、あの激しい戦いの前線を駆け回りながらも、数ヶ所に軽い打撲を負った他に怪我はなかった。
「運はあったけど、実力じゃないわ。あの能力がなかったら、十五回は死んでたと思う」
そう言ってマリナは楽しそうに笑い、テリスは疲れたため息をついた。
エナバリスは診断で絶対安静を言われていたが、城で働いているらしい。確かに、自分が将軍で街がこの状況だったら、マリナも同じことをしただろう。
ウィレアのことは聞いていない。一昨日エナバリスが訪れた際も、話題には上らなかった。しかし恐らくマフエルのことを聞き、落ち込んでいるに違いない。
ウィレアについては、マリナの気持ちはイーブンだった。矢を射られたことには正直怒りと落胆があったが、マリナが殺人を犯したのは事実で、その目撃者にして「本当のこと」を言っていたウィレアが今まで受けてきた扱いを考えれば、その行動も頷ける。
マフエルを助けられなかったのは残念だが、そのおかげで能力のことを知られずに済んだ。それに、マフエルが死んで一番悲しんでいるのはマリナではなく、当のウィレアだろう。
同情する気はなかったが、怒る気持ちもなく、どうでもよくはなかったが、自分から聞こうとも思わなかった。
店はずっと閉めたままだった。マリナが一日の大半をベッドの上で過ごしている状況の上、漁村が壊滅して市場は閉鎖中で、営業できる状態ではなかった。もっとも、開いたところで客が来るとも思えなかったが。
休みの間にマリナのもとに何人もの兵士が見舞いに訪れた。見舞いと言ってもマリナの方が軽傷なくらいで、見舞いというのも明らかに名目だった。本当は「戦場の天使」などと噂されているマリナを改めて見に来ているのだ。
「なによあなたたち、店ではさんざん人をバカにしてたくせに」
口を尖らせてそう言いながらも、本心では嬉しかった。慕われるのは気持ちのいいことだ。
「また落ち着いたら店を開いてくれ。いなくなった連中もいるけど、またくだらないことを言い合おうぜ」
彼らは最後にはそう軽口を叩いて帰って行った。
「いい人たちだね」
テリスがしみじみと呟く。
「そうね。だからフェイミが好きなのよ」
マリナはそう言って笑った。
終戦から一週間が過ぎた。
そろそろ店を開こうかとテリスと相談していると、城の使いから一通の手紙が届けられた。マリナを城に召喚する内容で、城主ユネイルの署名があった。
「活躍したから、勲章か何かがもらえるんじゃない?」
テリスは明るい顔でそう言ったが、マリナは若干の引っかかりを覚えた。しかしやはり面には出さず、ただ同意するように頷いて城に向かった。
謁見の間に通されると、城主ユネイルが玉座に座り、その傍らにプティバンが立ち、反対側にエナバリスが椅子に腰かけていた。まだ立っているのは辛いようである。
それ以外の者はすべて人払いされた。四人だけが残される。
「サイリス。あなたの活躍はエナバリスから聞いた。色々話を聞くと、第一報をもたらしたのもあなただと聞く。本当に感謝する」
「ありがとうございます」
マリナは余計なことは言わずに、ただ礼を述べて頭を下げた。
正面を見据える。ユネイルはまだ三十代の若い男である。なかなかハンサムで温和な顔つきをしているが、マリナを見つめる瞳はまったく笑っていなかった。
「サイリス。あなたに褒美を取らせたい。何か望みはあるか?」
「お金が欲しいです」
間髪入れずにそう答えると、さしものユネイルも驚いた顔をし、プティバンも呆気に取られている。エナバリスは笑いを堪えるのに必死な様子だった。
「私は街で料理屋をしています。エナバリス将軍や部下の方々のおかげで、それなりに売り上げもありますが、楽な生活ではありません。何かいただけるのでしたら、是非お金をください」
真剣にそう訴えると、ユネイルはとうとう笑い出して頷いた。
「わかった。こちらも状況が思わしくないから、たんまりとはいかないが、一個人が一年生活できるくらいは渡そう」
「ありがとうございます」
マリナは恭しく頭を下げた。その表情には一切の笑みはなかった。
この話は前振りで、本題はこれからだとわかっていた。そうでなければ、この人払いは尋常ではない。
ユネイルもそんなマリナの内心を察知していた。だから、単刀直入に話を切り出した。
「サイリス。実は今日はもう一人、あなたにお礼を言いたいという方がいる」
そう言って、ユネイルは玉座から降り、その傍らに立った。代わりに奥から現れたのは、ティユマンの第一王子ヴァスカルだった。齢二十五、やや小太りでハンサムとは言い難い相貌だが、頭が切れることで有名だった。
そして、マリナは彼と面識があった。
ヴァスカルは玉座につくと、マリナを探るように見つめながら言った。
「先の戦い、君の働きがなければ我が軍の勝利はなかったと聞く。わたしからも礼を言いたい」
「ありがとうございます」
無機質にマリナは繰り返した。
「なるほど」
ヴァスカルが呟く。その意味をマリナは測りかねたが、たぶん声のことだろうと想像した。ヴァスカルは恐らくここには視察に来たのだろうが、マリナの正体をここにいる四人全員が知っているのはもはや明白だった。
「サイリス、君に見てほしいものがある」
そう言って、ヴァスカルは一枚の紙をユネイルに渡し、ユネイル自らその紙をマリナに渡した。
「ニゲルヘイナから届いたものだ。目を通してもらえるかな?」
マリナは浮かない顔で黙読した。
『ドリスがマリナ王女に連れて行かれた。自分は今夜殺されるかもしれないから、今日までのことをここに書き残す。
ドリスとはマリナ王女に瓜二つの少女で、ユマナシュのコーファンの生まれである。自分はドリスとは昔からの知り合いで、二人でユマナシュからネイゲルディアに引っ越してきた。
しかしマトランダでドリスがマリナ王女と間違えられ、この城に連れて来られた。ネイゲルディアのバルナス将軍はドリスをマリナ王女ではないと気付きながらも、周囲の者にはマリナ王女だと嘘をつき、自分たちをここに幽閉した。
今外がどうなっているかはわからない。ただ、今日たった今マリナ王女がここにやってきてドリスを連れて行った。初めて見たが、目を疑うほどそっくりだった。
マリナ王女の目的はわからない。単なる気まぐれかもしれない。ただ、何かの意図を感じたので、これを書き記した』
最後に日付とフレッダの署名があった。日付はマリナが刺客に殺されたとされる日付と合致していた。
マリナは紙を置いて顔を上げた。
「意味がわかりませんが」
「それは、ニゲルヘイナがこの紙を我が国に送ってきた目的がわからない、という解釈でいいか?」
「いえ、書かれている内容です」
マリナは困ったように首を傾げて見せたが、内心ではもはや言い逃れは難しいだろうと思っていた。
ヴァスカルが淡々とした口調で言った。
「貴女はわたしを知っているはずだし、わたしも貴女を知っている。貴女はマリナ王女に間違いない。また、王女がこの街にいると言ってきたのもニゲルヘイナだ。諜報を許したのは悔しいところだが、実際彼らの言うとおり、貴女は今ここにいる。貴女はドリスという女性を身代わりにして生き延びた。ニゲルヘイナは貴女を探している。その探している理由がわからない、という解釈でいいか?」
マリナは視線を落として、しばらく顔を上げなかった。なるほど、ふた月前のあの男はニゲルヘイナの諜報員だったのだ。すぐに殺したことで安心していたが、仲間がいたに違いない。結局あの夜の行動は無駄だった。それどころか、巡り巡ってマフエルを殺すに至った。
(そうね、テリス。やっぱり軽率だったわ)
マリナは顔を上げた。
「亡くなったのは間違いなくマリナ王女です。あの夜、マリナ王女は直前で私を助けてくれました」
「では、君はマリナ王女ではなく、この紙に書かれたドリスの方だと言いたいのか?」
マリナはかすかに頷いた。ドリスを殺しておきながらこのような嘘をつくのは忍びなかったが、止むを得ない。
だが、それも無駄だった。
「機転の利く人だ。貴女の堂々とした態度、軍才、武芸、知恵、機転、いずれを取ってもわたしの知っている王女に間違いないし、戦場でテリスという若者が君をマリナと呼んだのを、このエナバリスが聞いている。まあしかし、貴女がドリスだったとして、だからなんだと言うのだ?」
マリナは怪訝な顔で首をひねる。ヴァスカルは楽しそうに言った。
「もはや貴女がマリナ王女だろうとドリスだろうと、そんなことは問題ではないのだよ。身代わりはいた。殺されたのがどちらだったにせよ、貴女は使う者にとって都合のいい方に使われる。だから、真実ではないなら、ここで自分はドリスであると宣言することによる利益は何もない」
その言葉に、マリナははっとなって肩を落とした。どう頑張っても相手の方が一枚も二枚も上手である。
せめて何も言わずに沈黙を守っていると、それを肯定の意味で取ったのか、ヴァスカルは話を変えてきた。
「それで王女、最初の質問の答えだが、実はわたしにもわからないのだ。ニゲルヘイナはただマリナ王女が生きていてフェイミに潜伏しているから、引き渡してほしいとだけ言ってきた。目的はわからない」
「禍根を断ちたいのではないですか?」
弱々しく答えてちらりと周囲をうかがった。いざとなれば能力を全開して逃げるつもりだったが、この城だけならまだしも、テリスを連れて街から逃げるのは不可能に思えた。
そんなマリナの考えを察したのか、ヴァスカルが少し声音を優しいものに変えた。
「そんなに警戒しないでほしい。それはニゲルヘイナの意向であって我々の意向ではない。もう一つ質問だ。貴女はどうしてここにいるんだ?」
マリナは顔を上げずに淡々と答えた。
「私はもう王女ではありません。国はもうありませんし、マリナという人間はあの日、あの発表とともにいなくなりました。私はサイリスとして平和に暮らしたいだけです。ここである必要はありません。テリスと静かに暮らせたら、どこでもいいんです。私が禍になるのなら、テリスと二人で出ていきますから……どうかお見逃しください」
深々と頭を下げると、ヴァスカルが困ったように頭をかいた。エナバリスも悲しげな顔をし、他の二人も顔を見合わせる。
心底弱ったようにヴァスカルが言った。
「そんな顔をしないでくれ。貴女のような美人にそんな悲しそうな声を出されたら、我々男にはなすすべがない。それは卑怯というものだよ、王女。まあ冗談はいい。貴女の意向がそうであれば、何も問題はない。フェイミの英雄をどうして追放できようか。是非これからもこの街に留まってほしいし、できればその正義感を忘れず、次の時にもフェイミのために戦ってほしい。いや、これは王子であるわたしから国民である貴女への命令としよう。街のために尽くすことを匿う条件とする」
マリナは勢いよく顔を上げた。そこには四つの笑顔があり、優しい瞳でマリナを見下ろしている。
ああ、だからこの街は好きなのだ。思わず涙が溢れた。
「わかりました、ありがとうございます。私はこの街が好きです。いざという時は街を守るために力を尽くすことをお約束します」
ヴァスカルは満足そうに頷いてから、明るい声で笑った。
「さあ、厄介なものを抱え込んだぞ?」
「それだけの価値はありますよ。ニゲルヘイナとの調整はお任せします。王女のことは我々にお任せください」
ユネイルが胸を張ってそう言うと、ヴァスカルが拗ねた口調で答えた。
「美味しいところだけ持っていく! わたしも時々王女の顔を見に来よう。呼んだらすぐに来てくれよ?」
マリナは柔らかく微笑んでから、いたずらっぽく言った。
「私は店にいますから、会いたければ食べに来てください」
一呼吸の後、笑い声が広間に響いた。
「やっぱり貴女はマリナ王女だ!」
マリナもつられて、少しだけ笑った。
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