もっとも、恩賞として贈られた金はマリナの想像していた額の倍はあり、生活には何も問題なかったが。
マリナには他にもティユマン国の紋章の施された鎧と剣、隊長以上の人間だけが着けられる深紫のマントが贈られた。
「それは着けていればあなたを知らない者も命令に従うだろう。戦いの時にだけ引っ張り出してくれればいい。『戦場の天使』はあなたに合う二つ名だと思う」
自らそれを手渡したユネイルが言った。マリナはありがたく受け取った。
鎧は少し重たかったが、サイズは革の鎧と同じサイズで作ってもらったのでぴったりだった。腿当てと籠手も着け、マントを纏うと、テリスが目を見開いて手を叩いた。
「すごくかっこいいよ、マリナ。王女だった頃のキミを思い出したよ」
「あなたの前では今でも王女よ? いい機会だわ。あなたはもう少し私を敬いなさい」
本当は馬も贈られるはずだったが、丁重に断った。二頭は必要ないし、短足のヴァリアントをマリナもテリスも可愛がっている。
「何せあの戦いをくぐり抜けたんだからね。丈夫よ、あの馬」
そう言って二人で笑った。ヴァリアントは戦いの翌日も、何事もなかったように草を食んでいた。
終戦からひと月ほど経ったある日、エナバリスがウィレアを伴って開店前の店を訪れた。
「慣れ合いは無しにしよう。娘が戦場で命を狙ったことに、心からお詫びしたい」
エナバリスが深く頭を下げる隣で、ウィレアも小さく俯いて「ごめんなさい」と言った。
エナバリスはウィレアに、マリナが討ったのはニゲルヘイナの諜報員であり、そのことはヴァスカル王子自ら証明すると話した。また、ウィレアが矢を放ったとき、マリナはマフエルを助けようとしており、結果としてそれがマフエルの命を奪うことになった話もし、ウィレアはしばらく放心状態になった。
自棄になったり泣き続けたりと、不安定な毎日を過ごしていたが、ようやく回復してこうして謝りに来たのである。
マリナは複雑な心境になった。殺されかけた怒りはすでになく、今ではただウィレアに対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。この少女は、果たしてそれほど悪いことをしたのだろうか。
すべては自分の隠し事によって生じたことであり、ウィレアはその犠牲者だった。元々悪い子ではない。真っ直ぐマフエルを愛し、必然的にマリナを憎んだ。マリナに矢を射たのは重罪だが、それ以外に罪はない。もっとも、マリナの方も初めから最後まで彼女には何もしておらず、すべてはほんの些細な誤解から生じた悲しい諍いだった。
「わかりました、許します」
ただ一言、呟くようにそう言った。
それが適切だったかはわからない。マリナは自分に関わる対個人の調停に不慣れだった。
ウィレアは一度だけ顔を上げ、何か言いたそうな目をしたが、結局口は開かなかった。
結果として、マリナはもう少しウィレアの心に踏み込むべきだった。その日の後も、ウィレアの心は晴れることなく、マリナへの憎しみも薄らぎはしたが消えることはなかった。
マリナの周りには人が集まり、ウィレアは相変わらず孤立していた。その寂しさに堪えきれず、ある時ウィレアはとうとう感情を爆発させた。
「私はマフエルを失ってもう何も残ってないのに、あんたにはテリスがいる! 慕ってくれる人もいる! お父様もあんたの味方! いつも余裕そうに振る舞って、私を見下して、私はあんたなんて大っ嫌い! 消えてしまえばいいのに!」
癇癪を起こして子供じみたことをわめき散らすウィレアに、マリナは一瞬呆然とした顔をした後、「そうね」と短く言葉を切った。
それっきり、二度とマリナの目がウィレアを映すことはなかった。
後日、何故かひどく落ち込んでいるウィレアに、部下から娘がマリナに食ってかかったことを聞いたエナバリスがマリナの生い立ちを語った。王女であることは隠したが、彼女が生まれてすぐに母親を亡くし、貴族の抗争で兄を謀殺され、父を病気で亡くし、戦争で家も国も失って、テリスと二人でフェイミに逃げてきたことを教えた。
ウィレアは呆然となった。マフエルは失ったがマフエル以外には何も失っていない自分が、テリスはいるがテリスの他には何もない天涯孤独の女性に対して、なんというひどいことを言ってしまったのか。そして、そんな境遇にありながら、マリナはなんと力強く前向きに生きているのか。
すぐにウィレアは、マリナにこれまでのことを謝りに行った。それですべてを水に流し、一から友情を築いていくつもりだった。
ところがマリナは、ぞっとするほど冷たい目を向けて、神妙な面持ちで頭を下げるウィレアを突き放した。
「……私たち、仲良くなるにはもう少し時間がかかりそうね」
マリナが一市民でしかない個人を嫌うのを、テリスですら初めて見た。ウィレアはようやくマフエルの次に失った物の大きさを知ったが、もはや後の祭りだった。
一晩泣いた翌日から、ウィレアは『陽射しの港』の常連に加わった。根は悪い娘ではなかったので兵士たちとはすぐに打ち解けたが、結局マリナとの間に出来た溝は長い間埋まることはなかった。
店を再開してから初めて迎える休日、マリナはヴァリアントの背にテリスを乗せて、ドリスの墓を訪れた。二年もともに暮らしながら、今まで隠し続けてきた場所である。
遥か眼下に広がる美しい海を見つめながら、テリスがあからさまに不機嫌な声で言った。
「マリナは、ドリスのことも、こんな素敵な場所のことも、ずっと隠してたんだね」
「今日教えたわ」
「なんだよそれ! 今日までずっと隠してたんじゃないか! 二年も! 二年も、キミは誰にも言わずにドリスに懺悔し続けていたなんて……」
「そういう顔をするから言わなかったのよ」
いきなりしょんぼりしてしまったテリスの肩に頭を乗せて、マリナは目を閉じた。
「私は大丈夫よ。今日教えたのもあなたのためよ? テリス、私は本当にダメな時はあなたに頼ってるつもりだし、実際何度もあなたに助けられてる。隠し事は確かに多いかも知れない。でも、全部話したら、私なら堪えられることであなたが先に潰れてしまうわ」
テリスは何も言えなかった。頼って欲しいし、すべてを共有したかったが、前にマリナが言ったとおりマリナと自分とではスケールが違いすぎて、いざ話されても戸惑うだけだった。
実際、今もドリスのことでなんと声をかければいいのかわからない。けれどマリナ自身は平気そうで、自分の言葉など求めていないようだった。つまり、言葉通りここには「テリスのため」に来たのである。
すっかりしょげ返ってしまってテリスの頬に、マリナはそっと唇を寄せた。
「だから、そんな顔をしないで。大丈夫なんだから。私、ユマナシュに攻められたとき、ずっとあなたに会いたかった。あなたは側にいてくれればそれでいいの。あなたはそれじゃ不満かも知れないけど、それで私は十分助けられてる」
「ボクは、自分が情けなくて……」
「しょうがないじゃない、情けないんだから。嬉しくないことを承知で言うけど、私は情けないあなたが好き。でも私が本当に危ないときは側にいて助けてくれる。そのギャップにドキドキするの……年に一回くらい」
「最後の一言は余計だよ。すごく余計だった」
マリナは楽しそうに笑った。それから身体を起こして低い声で言う。
「せっかく二人で楽しんでるのに、邪魔をしに来たの? それとも、覗き見する趣味があるの?」
「えっ?」
テリスがマリナの顔を見るのと、背後から嘲るような男の声がしたのはほとんど同時だった。
林の中から現れたのは、いつかの性根の曲がった魔法使いの男だった。
「お前があまりにも似合わないことを言うから、つい気配を消すのを忘れてしまった。いつからそんなに純情な乙女になったんだ? マリナ王女」
「なっ……!」
テリスが驚きに目を見開く。突然男が現れたこと、その男がかつて店の片付けをしていた自分に話しかけてきた男であること、そしてマリナの正体を知っていること、すべてが驚きだった。
けれどマリナは平然と言った。
「二度と会うことはないって思ったからテリスに話し忘れていたわ。また怒られるじゃない、隠し事が多すぎるって。何しに来たの?」
「用事はない。ただ、そろそろここから出ようと思ってな。お別れの挨拶さ」
「それは律儀なことね」
つまらなさそうにマリナは吐き捨てた。少し間を置いて、男が聞いた。
「連中との戦は楽しかったか?」
マリナは思わず噴き出して、それから大きく首を振った。
「あなたの思考回路にはついて行けないわ。楽しいわけないじゃない。一体どれだけの仲間を殺されたと思ってるの?」
「だが変化があっただろう」
そこで初めてマリナは振り返った。黒髪の男は相変わらずにやけた表情をしていた。マリナは無表情で答えた。
「変化は歓迎よ。でも、もっと平和な変化にしなさい」
「俺にサーカスでもやれと? バカな。心が弾むような事件っていうのは、大概誰かが不幸になるものさ。事件の大きさは不幸になる人の数に比例する。今度のは傑作だった。お前の活躍も良かったぜ。同じ魔法使いとして鼻が高い」
「一緒にしないで。もう一度言うわ。私は悪人は嫌いよ」
「残念だよ、マリナ王女。だが俺はお前が気に入った。俺の名前はカルディックだ。いつかお前の店に寄ることがあったら、酌でもしてくれよな」
一方的にそう言って、カルディックと名乗った魔法使いは二人の前から消えた。
「誰も名前なんて聞いてないのに」
大きくため息をついてから、マリナは再び目を閉じてテリスの肩に頭を乗せた。
ようやくテリスが口を開いた。
「えっと……誰?」
「前言ったとおり、ちょっと変わったことが好きな人よ。今回の事件を引き起こした張本人で、私たちみたいに不思議な力を持った人」
テリスは驚いてマリナを見て、唇が触れるほど近くにあるマリナの顔にどぎまぎしてすぐにまた俯いた。
「重罪人じゃないか。どうして見逃したの? 正義感の強いキミらしくもない」
マリナは少し意外に思った。どうやらテリスも半ば友達にまでなっていた常連客の多くを殺されたことに、強い憤りを覚えているらしい。
もちろんそれはマリナも同じだった。だが、カルディックと名乗ったあの魔法使いを恨む気はなかった。
「どこまで本当のことかわからないし、あいつらが前にナナ・テイルスを襲ったのはあいつらの意志。今度の一件も、あの自惚れ屋が自分で思ってるほど本人は関与していないのよ。それに、私じゃ戦っても勝てない。能力も経験も違いすぎるわ。あなたが思うほど、私は強くない」
「そっか……」
テリスは満足げに頷いて、そっとマリナの肩を抱き寄せた。
「たぶんキミの選択は、いつだってボクが思うより正しいんだ。でもボクはそれを確かめたいから、やっぱりこれからも自分の浅はかな考えを言うよ?」
マリナは可笑しそうに頬を緩めた。
「ええ、是非そうして。それに、私はあなたが思うほど立派じゃない。あの夜感情に任せてニゲルヘイナの諜報員を殺したのは失策だった。私は焦っていて、周りが全然見えてなかった。その後のウィレアへのフォローも失敗だった。その時その時は正しいと思う選択をしてるけど、結果なんて誰にもわからない。カルディックに自分が王女だって告げたことも、後から私が死ぬような事件に発展するかもしれない」
「そんな縁起でもない」
「事実よ。エンファスを信じたのも失敗。ドリスを身代わりにしたのも、もっと他に方法があったかも知れない。でも、済んでしまったことは後悔しない。だから、テリスも自分が正しいと思うことをすればいい。それで悪いことになっても後悔せずに生きましょう。ダメな時は私に頼ればいいし、私もあなたを頼る。支え合って生きていこう」
テリスは何も言わずに、真っ赤になって俯いた。マリナはくすりと笑った。
時は静かに流れている。
「さあ、そろそろ戻ろう。街に入れなくなるわ」
マリナはそう言って立ち上がり、テリスの手を取った。
すでに東のニゲルヘイナの山々には夜の帳が下りている。
(そう。たぶん、生活ってこういうものなのよ)
いつか灯りのない店内で話したことを思い出して、マリナはテリスに気付かれないように微笑んだ。
楽しいことと悲しいこと、出会いと別れ、様々なものが交錯しながら生活は続いていく。
この丘を走る道のように、曲がったり交差しながら、どこまでも続いていく。
Fin
←前のページへ |