■ Novels


戦場の天使
オリジナル小説 『SCARLET WARS』 の続編になります。
よろしければ、先に 『SCARLET WARS』 をお読みください。

マリナ : 元ネイゲルディアの王女。二十歳。テリスの営む料理屋の看板娘。金髪の美人。
テリス : マリナの友達の青年。十七歳。マトランダに住んでいたが、マリナと二人でフェイミに。
エナバリス : フェイミの将軍。テリスの店の常連客。武才のあるマリナを部下にしたいと思っている。
マフエル : エナバリスの部下で、彼の娘と恋仲だったが、マリナに一目惚れしてごちゃごちゃに。
ウィレア : エナバリスの娘。恋人のマフエルがマリナになびいたことで、彼女を逆恨みしている。
黒髪の魔法使い : 性格のねじ曲がった人。今回の事件の元凶。ちまちま登場してマリナに絡む。

 マリナが店に戻る頃には、雨足は弱まっていた。店はすでに灯りが落ちていた。もう夜中である。
 裏口から店に入ると、マリナはそこで服を脱いだ。乾いた部分がないほど濡れた衣類を着ているのは不快なだけだったので、全部脱いで一糸まとわぬ姿になる。
 すでにテリスは寝室だろうし、客が残っていないのは明白である。問題はない。
 脱ぎ捨てた衣類は片付けるのが面倒だったのでそのまま放置し、上に行こうと階段に足をかけたとき、店の奥から声がした。
「マリナ?」
 驚いた。店内を覗くと、カウンターに一人、ぽつんとテリスが座っていた。それはまったく夕方の再現だった。
 マリナは自分がひどいことを言って店を飛び出したことを思い出した。テリスが落ち込むのも無理はない。
 近付くマリナを、テリスは呆けた顔で見つめていた。マリナは何かと思ったが、すぐに自分が何も着ていないことを思い出し、慌てて胸を隠した。
「話は聞くから、まず服を一枚貸しなさい」
 マリナが低い声で言ったからか、テリスは慌てて視線を逸らせて上着を脱いだ。マリナはそれを着て隣の椅子に腰かけた。
 テリスはカウンターに肘をつき、頭を抱えている。マリナはため息をついた。
「テリス。さっきのことはごめんなさい。あれは私が言いすぎたわ。ただ、本当に急用だったの。ちゃんと話すから聞いて」
 テリスは頭を抱えたまま、苦しそうな声を出した。
「それはもう、いいんだ。別にいいんだ。ボクは怒ってないし、キミを嫌いになったりもしてない。そんなことより、ボクには判断できないことが起きた。ボクはキミとの約束を破ったかもしれない」
 マリナは思わず目を見開いた。別件だとは考えもしなかった。しかもどうやら、状況はあまりよくないらしい。
「いいわ、テリス。大丈夫だから、落ち着いて話しなさい。私の方は急を要する話じゃないから、あなたから話しなさい。大丈夫よ、私がついてる」
 テリスが顔を上げた。目が涙で光っていた。マリナが安心させるように微笑むと、テリスは涙を一筋流してから、震える声で言った。
「あの力を使ったところを、人に見られた。しかも、話しかけられて、マリナのことも話した」
「私が王女だってこと?」
「ううん、力のこと。マリナの正体とか、そういうことには興味がないみたいだった」
「そう」
 少し安心して息を吐いた。
 ──力。
 テリスの言う「力」とは、先ほどの戦いでマリナが使ったそれだった。
 幼い頃、マリナは遥か昔に人々が<無邪気な邪気>と呼んだ黒い邪気に憑りつかれた。それを助けようとしたテリスの左手にも少し、その邪気は入り込んだ。
 二年前、テリスの機転によりマリナはその邪気から解放された。邪気は完全に消え去り、もう邪気の声に苛まれることもなくなった。
 それからすぐのことだった。マリナは不意に自分に特別な力が備わっていることに気が付き、その発動方法も自然に理解できた。
 人を超越した筋力を発揮する能力。魔法。
 能力を使うことに、マリナは慎重になった。これはあの黒い靄の陰謀かもしれない。
 だが、使った後に少し身体に反動がある他に、特に影響はなかった。
 そこで初めてテリスにも教え、試させると、テリスも同じ魔法を使うことができた。もっとも彼の場合は、左手の腕力が少し上がるだけだったが、何かと力が必要な場面も多かったので能力は重宝した。
 ただし、マリナは魔法に対する人々の偏見を知っていたので、テリスに能力を絶対に人前で使わないことと、他人に話さないことを約束させた。
 テリスの言った「約束」とはそのことだった。
「いいのよ、テリス。そんなに震えないで」
 マリナは椅子から立ち上がり、優しくテリスを抱きしめた。もっとも、マリナの身体は冷え切っていたので、テリスの震えは逆にひどくなったが。
 マリナはそっと頬を寄せ、テリスの髪をなでた。
「テリス、大丈夫だから。私なんてたった今、あの力を使って人を殺してきた上、それをウィレアに見られたわ」
 あまりにもさらっと言ったからか、テリスはよく意味がわからないようだった。マリナは自虐的に笑った。
「だから、大丈夫。あなたの失態なんて全然大したことじゃない」
 しばらくしてから、胸の中でテリスが小さく笑った。そしてぎゅっとマリナの身体を抱きしめて言った。
「いつもだけど、マリナの話はスケールが大きすぎて時々ついていけなくなるよ」
「そりゃ、そうよ。私の方がずっとスケールの大きい人間なんだから。あなた、何様のつもりなの?」
 二人は抱きしめ合ったまま笑った。しばらく笑ってから、テリスが言った。
「知らない男の人だった。三十歳くらいの、黒髪の」
「ああ、あいつか……」
「知ってるの? その人が、ボクが力を使って片付けをしていたらいきなり後ろにいて、『その力はどうした?』って聞いてきて」
「それで全部話したのね?」
「ごめん。でも、怖かったんだ。話さなかったら殺される気がして」
「賢明よ。いいわ、安心して。あの男のことは私にもよくわからないけど、誰かに言いふらしたりしないわ。ただちょっと、変わったことが好きな人なのよ」
 マリナは苦笑して言った。テリスも乾いた笑い声を零した。
「私の方は、手短に言うと私のことを王女だって知ってる人が店に来て、その人を追いかけてたの。危険を感じたから殺したわ」
「相変わらずだね。命って、そんなに簡単に奪えるものなの?」
「ええ。大切なものを守るためならね。でも今度は裏目に出たわ。なんでか知らないけどウィレアがいて、力を使うところも殺すところも全部見られた。死体は片付けてきたけど、ちょっと状況は良くないわね」
 なるべく明るい声で言うと、テリスもつられて笑った。
「簡単に言うね。捕まって殺されるかもしれないよ?」
「その前に逃げるわ。大丈夫よ、テリス。大丈夫だから」
 マリナはそっとテリスの背中をなでながら、何度もそう繰り返した。
 根拠はなかった。内心、大丈夫だとも思っていなかった。それでも、なんとかなる予感がしていた。
「マリナの身体、冷たい……。震えているのはそのせいなの?」
「そうよ。ずっと雨の中にいたから。怖いからじゃないわ。あなたと一緒にしないで」
「そうだね。マリナは強いもんね。でも、早く温まらないと風邪を引くよ?」
 マリナはくすりと笑った。
「そうね。じゃあ、あなたが温めて」
 そう言って、そっとテリスに口づけをした。

 状況は、マリナの予感通り、あまり悪いことにはならなかった。
 ウィレアは真っ直ぐ家に帰り、酔っ払って帰ってきた父親にマリナのことを告発した。
 エナバリスは一笑に付したが、ウィレアがあまりに言うので念のため部下を引き連れて現場へ行った。実際、その時刻にマリナが急に店を飛び出したのは事実である。
 しかし、現場には戦いの痕跡は何も残っていなかった。血は全部雨が洗い流していた。
「サイリスが男の死体を一人で運べるはずがない。死体はお前が思うよりずっと重いのだ。ましてやこの雨で服も重たくなっているはず」
「ほんとよ! サイリスはすごく力持ちなの! だって、片手で男の首を絞め上げてたのよ!? 軽々と骨を砕いてたし、あれは化け物かもしれないわ!」
 そう訴えたウィレアを、エナバリスは張り倒した。ウィレアはひるむことなく涙目で睨み上げる。
「どうしてお父様はいつもいつもあの女の味方ばかりするの!?」
「お前がサイリスを嫌いだからと言って、残酷な作り話をするからだろう! その話をサイリスが聞いたら、どれだけ心を痛めると思っている!」
「全部本当のことよ! 信じて! あの女、人間じゃないわ!」
 ウィレアは父親にすがりつき、さらに頬を殴られることになった。
 翌日、念のため、エナバリスはマリナにその夜のことを尋ねた。もちろんマリナは予想していたので、申し訳なさそうに頭を下げて、用意していた出鱈目を話した。
「急にいなくなってごめんなさい。こっちに来ていた昔のマトランダの友達が、急に帰ることになったからって言いに来て。もう二度と会えなくなるかもしれないと思ったら、お店なんてどうでもよくなっちゃったのよ。本当にごめんなさい」
 一瞬として動揺した気配を見せなかったマリナの言葉を、エナバリスは完全に信用した。そしてウィレアの訴えをそのまま伝えた後でこう言った。
「本当にすまない。娘はお前をひどく嫌っているから、この作り話を言いふらすかもしれない。娘は憎しみのあまり幻想でも見たのかもしれない」
 マリナは穏やかに笑って答えた。
「ええ、いいわ。私にも非のあることよ。一度マフエルにちゃんと言った方がいいかもしれないわね。別に私から言うことじゃないと思って黙ってるけど、あの子が私を嫌いなのは、マフエルが私に気があるからでしょ? それとエナバリスさん、娘さんを叩いちゃダメよ? 女の子なんだから」
 まったくいつも通りのマリナを見て、エナバリスは完全に疑いを捨て去った。
「わっはっはっ。確かにその通りだな。よし、ウィレアには謝っておく。それとマフエルのことだが、お前は何も言わなくていい。マフエルがお前を好きなのはお前が悪いわけではない。お前が気のある素振りをしているわけでもないし、これはウィレアとマフエルの問題だ。口を出せば余計にややこしくなる」
「ええ。私もそう思ってるんだけど……まあいいわ。エナバリスさんには悪いけど、ウィレアと仲良くなるのは絶望的ね……」
 マリナはがっくりと肩を落とした。
 終始、完璧な演技だった。
 あの晩マリナに白マントの逃げた場所を教え、テリスにちょっかいを出した黒髪の男は、それっきり現れなかった。変な噂も広まらなかった。
 マリナはひとまずあの男のことは忘れることにした。
 ウィレアは予想通りマリナのことを化け物だ、人殺しだと言いふらし、マリナは時々それをネタにからかわれるようになった。
 もっとも、評判は変わらなかった。誰もがマリナを信じた。確かにマリナは強いが、いきなり人を殺めるような女性ではない。
 逆にウィレアはどんどん孤立し、マリナを悪く言ったことでマフエルにも嫌われ始めた。
 やがてウィレアはマリナのことを口にしなくなった。しかしあの夜の出来事を否定する気はなかったし、恐怖と憎しみが消えることもなかった。
 一言も喋らずに、心で何度も繰り返した。
(みんなあの女に騙されてる。私があの女を殺して、みんなの目を覚ますんだ)
 季節は緩やかに遷りゆき、春になった。

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