「最悪。もう、死ね」
フェイミの将軍エナバリスの娘ウィレアはそう毒づいてから、苛立たしげに街路樹を蹴った。
近くの家の軒先に入ると犬にけたたましく吠えられ、弾かれるように雨の中に身を投じる。
肩の高さで切りそろえた亜麻色の髪がずっしり重く、前髪から顔に流れ落ちる雨が不快極まりなかった。
「全部あの女が悪いのよ。そうよ。全部そう。いつだってそう!」
石を蹴りつけたらその石は地面にしっかりと固定されており、ウィレアは思わず悶絶して足を押えた。
「くぅ……っ! ああもう!」
涙目で立ち上がって周囲を見回す。辺りには誰もいなかった。誰にも見られなかったのは幸いだが、一人で悶絶しているよりは、誰かに指を差されて笑われた方がましな気もする。
どう転んでも機嫌が悪い時はダメだった。
「マフエルもマフエルよ! ううん、でもやっぱり悪いのはあの女! あの女さえ現れなければ……!」
赤い瞳が復讐の色に染まる。もっとも、その目に人を殺すような鋭さはなく、どちらかというと喧嘩した子供のそれに近かった。
ウィレアの言う「あの女」とは、もちろん『陽射しの港』の金髪の看板娘だった。
エナバリスの部下であるマフエルはウィレアの幼馴染みで、物心ついた時にはすでに一緒に遊んでいた。
年が経つにつれて、ウィレアは彼に恋心を抱くようになり、実際恋人同士と言っても過言ではない仲になった。もっとも、マフエルがウィレアに愛の言葉を口にしたことはなかったが、ウィレアは彼の態度と向けられる瞳の優しさに満足していた。
娘を愛して止まないエナバリスもマフエルのことは認めており、ウィレアがマフエルを好きなことを宣言した際も、「彼ならば良い」と頷いた。
ところが、そろそろ結婚という言葉が脳裏にちらつき始めた一年前、彼はサイリスという女性と出会った。兵士たちの間で評判の店があるという話はエナバリスからも聞いていたが、その理由は味よりも娘だったのだ。その店についにマフエルは行き、心を奪われて戻ってきた。
マフエルは週に二度は通うようになった。サイリスにはテリスという男がおり、どう頑張っても略奪は無理だと忠告すると、マフエルは「ああいう女性は近づきすぎずに見ているだけでいいんだ。時々話せたら、それ以上望むことはない」と言った。
すでに自分というものがありながら、他の女に鼻の下を伸ばしているマフエルに納得がいかず、父親にそう打ち明けると、あろうことかエナバリスまで「サイリスなら仕方ない。マフエルは男として正常ということだ」などと言い出し、ウィレアは呆然となった。
一体どれほどのものかと見に行くと、実際自分では到底太刀打ちできない美人がそこにいた。美しい金髪、整った目鼻立ちに薄い唇、適度に膨らんだ胸と程よくくびれた腰、すらりとした長い手足。言葉遣いはぞんざいだが声は綺麗で、髪をかき上げる仕草にはウィレアですら思わず見惚れる気品があった。
ある日マフエルが笑いながら語った。
「彼女に『綺麗だね』って言ったら、彼女『当たり前じゃない』って、さも当然そうに言ったんだ。驚いたよ。どうしてだと思う?」
「さぁ」
不機嫌に言葉を返すと、マフエルは心底愉快そうな顔をした。
「彼女、元は貴族の娘なんだって。『外見はほぼ遺伝で決まるのよ。貴族ならお嫁さんに綺麗な女性を選べるから、その娘が美人なのは必然よ』だってさ。実際、王侯貴族に美形が多いのはそういう理由みたい。目から鱗だな」
もちろんマリナはそれを、「自分の努力ではないから自慢することではなく、自分が美人なのは親のおかげだ」と言っただけだが、それはいかにも王女らしい、ずれた発想だった。ウィレアには嫌味にしか聞こえず、その日から彼女に対する憎しみが三倍増しになった。
「良かったわね。どうせ私は美人じゃないわよ」
「え? ウィレアの話はしてないよ。ウィレアも十分綺麗だと思うけど」
マフエルはフォローするわけではなく、素でそう言ったが、その時ばかりは嬉しくなかった。
結婚どころか恋人らしい関係もいつの間にか消えてなくなり、ウィレアはひたすら憎しみを募らせていた。
今夜もまた、マフエルはエナバリスらとともに『陽射しの港』に行っている。料理を作って待っていたウィレアは当然のごとく引き留めたが、「付き合いも大事だろ? みんな行くんだし」と言って、ウィレアを無視して行ってしまった。
ウィレアは一人寂しく食事を済ませた後、じっとしているとイライラするので外に出て、今に至っている。
雨に濡れて歩く最中、何度か店の前を通りがかった。中は兵士たちの笑い声に包まれており、余計に孤独感が募る。
いっそ乗り込んでマフエルの首根っこをつかんでやろうとも思ったが、それで嫌われてしまっては元も子もないのでやめておいた。父の言うとおり、マフエルの反応が人間の牡として生物的に仕方のないことであるならば、悪いのはマフエルではなく現れた女の方だ。
いや、そんな難しく考えるまでもない。サイリスがいなければこうはならなかったのだから、諸悪の根源は明白である。
店を離れ、暗い場末の通りをふらふらと歩く。
周囲に人影はなかった。フェイミは平和だが治安がいいわけでもない。もっとも、ウィレアは腕に自信があったのでまるで気にしていなかった。幼少の頃より、エナバリスから剣を教えられている。
行く当てもなく、かと言って帰る気にもなれずぼんやりと歩いていると、突然、どこからか剣戟の音が響いた。
「な、何?」
ウィレアは反射的に剣を抜き、音のした方へ駆けた。
声はしない。ただ剣を打ち合う音がする。
いよいよ近くまで来ると、ウィレアは走るのをやめて気配を消した。角の向こうで、誰かが戦っている。
剣の音はしなくなったが、斬られたような声もなかったので睨み合っているのかもしれない。
ウィレアは一度額の雨を拭い、静かに角に歩み寄った。
そして──
* * *
雨にも関わらず店は繁盛していた。案の定エナバリスが部下を引き連れて訪れ、ほとんど満席状態である。
「大体、外が私一人っていうのが無理なのよ! そろそろ他に誰かを雇うことを真剣に考えるべきだわ!」
マリナがぶつぶつ言いながら料理を運ぶ。もちろん、奥にいるテリスには聞こえない。常連客に愚痴を聞いてもらっている形である。
慣れた客などはテリスから出された料理を自分で運んでおり、店員と客の線をしっかり引きたいテリスもそれを黙認していた。マリナ一人では店は回らないが、誰かを雇う余裕はない。客が手伝ってくれるのはありがたいことだった。
「そもそも、私はお洒落な喫茶店のつもりだったのよ! ほんとよ? それがなんでこんな酒場みたいな店になっちゃったのかしら! 信じられない!」
笑いが起こった。当の本人は大真面目だったので不機嫌な顔になる。
「サイリスがお洒落な喫茶店? 似合わん似合わん! わははははっ!」
「マダムにいじめられるだけだぞ? 俺たちに可愛がられてる方がいいだろう!」
野次が飛ぶ。
「何が! みんな私を誤解してるわ。あーもう、そこ、床に落としてる! 綺麗にして帰らないと、掃除代は別で請求するわよ!」
相変わらずどたどたと働きながら、マリナはふと体中を舐められるようなねっとりとした視線に気が付いて振り向いた。
見ると、店の奥の席に見たことのない男が座っている。黒い服に白いマントは旅装束らしく、ぼさぼさの髪もいかにも旅の後という印象だった。
目が合うと男が手を挙げた。注文をしたいのかもしれない。
いつもであれば常連だろうと初見の客だろうと、この忙しさならその場で大声で言ってもらうのだが、気になることがあったので持っていた料理を全然関係ないテーブルに置いてそそくさの彼のもとへ歩いた。
「いらっしゃい。うるさくてごめんなさいね。ご注文?」
「ああ。ビールと、後は何か適当に出してくれ」
男の声には抑揚がなかった。悪い印象もなかったが、マリナは何故か嫌な予感を覚えた。
しかしそれは一切面には出さずに笑顔で言った。
「わかったわ。そう言うお客さんが多いから、うちには『何か適当なもの』っていう定番メニューがあるのよ。良心的でしょ」
男が楽しそうに笑った。マリナは意外に思った。やはり気のせいかもしれないと思った刹那、男がマリナに決定的に不安を抱かせる一言を吐いた。
「サイリスさん、だっけか。言葉にネイゲルディアの訛りがあるな。ナガノリアの生まれなのか?」
わずかに動揺した。その一瞬の動揺を悟られたことも察した。
「ええ、ネイゲルディアから来たわ。でもナガノリアじゃないわ。マトランダよ」
「マトランダか。独立の際に出てきたのか?」
「まあそんなところね。ビールを持ってくるわ」
マリナは男の席から離れた。それっきり男は何も聞いてこなかったが、それが逆にマリナに不安を募らせた。
(あの人、たぶん私がマリナだって知ってる……)
やがて、男が金を置いて席を立った。
店は相変わらずの賑わいだったが、マリナの目には入らなかった。誰かがしきりに呼んでいたが、すべて無視した。
奥に走ってエプロンを脱ぎ捨てる。
「えっ、マリナ?」
「ちょっと出かけてくる!」
「な、何をバカなこと言ってるんだよ! 店はどうするんだ! ほら、早くその料理を運んで!」
テリスは一瞬驚いた後すぐ、本気でムッとなった表情をした。マリナは無視した。今あの男を追わなければ、後でテリスの愚痴を聞く数百倍悪いことが起こる予感がする。
「さっきマフエルを懐柔しておいたわ。急いで行かなくちゃ!」
「無茶だよ、そんなの! 理由は!? ボクが納得……」
「ごちゃごちゃうるさい! 店の状況はわかってるわよ! わかった上で言ってるんだから、何か意味があるんだって察しなさいよ! あなた、最近ちょっと生意気だわ。誰にものを言ってると思ってるの? どんなに落ちぶれても、私はあなたと対等になったつもりは一切ないから! 少し頭を冷やしなさい!」
イライラしてマリナは怒鳴った。怒鳴りながら、すでに言い過ぎたと思った。頭を冷やすのは自分の方だと思ったが、謝るにしろ喧嘩をするにしろ、後回しだ。
呆然として今にも泣き出しそうなテリスを置いて、マリナは奥へ駆けた。そして剣を握ると裏口から店を飛び出した。
←前のページへ | 次のページへ→ |