「夜は嫌い」
背後で小声で呟いたミランを振り返ると、彼女は聞いてもいないのに真顔で言葉を続けた。
「怖いから」
まるで文字や計算を教わる基礎学校に通い始めたばかりの子供のような様子に、俺は思わず溜め息をついた。
ちなみにミランは17である。ここアリスランダではちょうど大人の階段を昇り始めたくらいの年だ。
別に知能が足りないということはないし、むしろ頭の回転や判断力、冷静さでは20を過ぎた俺を遥かに上回る。
俺があまり賢くないのもあるが、彼女が優れているのは事実だった。エルザーグラのミランと言えば、2年前に最年少、しかも首席で学院を卒業した少女として有名である。
つまり、頭がいいヤツほどどこかおかしいということだろう。
もう一言付け加えると、ミランは夜の森の中で動物が哭こうが草木が揺れようが平然としている。彼女の言う「嫌い」とか「怖い」とは、一体なんなのだろうか。
「お前は、本当に怖がっているのか?」
半眼で尋ねると、彼女の中で時間はすでに流れていたらしく、まったく俺の発言など気にせずに前方を指差した。
「入り口に二人いるね。裏に回ってこっそり潜入するのも手だけど、裏には罠が張ってあるかも知れないし、人数を減らす意味でも強行突破した方が幸せな感じ」
やる気のない声だったが、瞳が真剣なのを見て、俺は何も言わずに彼女の指差す方に目を遣った。
前方にあるのは1階建ての小屋だった。小屋といっても結構大きい。事前に仕入れた情報によると、中には人が30人ほどいるらしい。
夕方近くに縛り上げた盗賊のアジトである。
この角度からでは表しか見えないが、裏は森の木々に隣接している。なるほど、普通ならば裏から忍び込もうと考えるが、罠が張ってある危険が高い。
側面はよく見えないが、窓くらいはあれど入り口替わりになりそうなものはなさそうだ。表のドアは、見張りがいることを考えても鍵はかかってないだろう。
見張りを音も立てずに倒し、緩やかに潜入するのが得策だ。
「しかし、静かだな……。もう見張り以外は寝てると思うか?」
小屋からは光が漏れているが、音はしなかった。そういう時間を選んできたとはいえ、静か過ぎる。
俺の言葉に、ミランはやや表情を険しくして答えた。
「私たちを追ってきた5人が戻ってないのはわかってるはずだから、ひょっとしたら警戒してるかも」
「気楽に言うなよ」
俺が苦笑すると、ミランは見張りから目を外すことなく言った。
「考えてもしょうがないし」
小屋の造りは縛り上げた男から聞いていた。入り口を入ると真っ直ぐ通路になっており、左側には二つのドアがある。
二部屋ともただの寝床らしい。右側には3つのドアがあり、そこが生活空間になっているそうだ。
捕まっているはずの少女の居場所はわからない。ひょっとしたら寝床の奥に繋がれているかも知れないし、別の場所にいるかも知れない。
ただ、牢のようなものはないそうだ。もちろん、どこまで信じられる情報かはわからないが。
「大胆にやるなら、飛び込んで左を殲滅。でもあの子を人質に取られると寝覚めが悪くなるね」
そんな怖いことを言って、ミランはちらりと俺を見た。
寝覚めが悪くなるというのは、つまり最悪少女に危害が及んだとしても、自分たちが彼女のために犠牲になる気はないということである。
「慎重にやるなら?」
自分で考えろと突っ込まれそうだが、俺はより聡明な意見を求めて彼女の瞳を見つめ返した。
ミランは複雑な表情で声をくぐもらせた。
「見張りの一人を生かしておいて、最新の情報を手に入れる」
「微妙だな」
俺は即答した。彼女自身もそう思っている。自信がないときは、見た目にはっきりわかるほど自信のない顔をするのだ。
見張りを生かしておいて、且つ大声を出させずに情報を聞き出す。現実的に考えても難しそうだ。
しかし、先程彼女が言った通り、ずっと考えていてもしょうがない。まったく危険を冒さずに行えるほど、今回のミッションは簡単ではない。
ミランは深く息を吐いてから、独り言のように呟いた。
「しょうがない。魔法を使おう」
俺はちらりと横目で見ると、何も言わずに大きく一度頷いた。
魔法は魔力を持つ一部の人間だけが使える不思議な力で、その中でも実際に行使できるのは大都市にのみ存在する学院で学んだほんの一握りの者だけである。
複雑な陣を極めて正確に描く必要があり、あまりの難しさに、折角魔力を持って生まれながら、途中で挫折していく者も多いらしい。
俺もごくわずかだが魔力があり、一時魔法師に憧れたこともあったが、どちらかというと短気で大雑把な性格の俺には不可能だと判断して、剣の道に走った。
ミランはそんな学院を最年少、しかも首席で卒業した天才なのだ。ただ、学びたくて学んだものではないらしく、あまり使いたがらない。
俺も詳しいことは知らなかったし、聞いてもなかった。知っているのは、学院には親に入れさせられたということと、今はその親元を家出し、俺と出会い、こうして一緒にいるということだけである。
俺と出会ってからは、魔法など本当に必要な時しか使わず、ずっと体術に励んでいる。今も動き易い貫頭衣をベルトで止めただけの格好をしており、とても魔法師には見えない。
「私が二人を眠らせるから、静かにこっちに運んで、起こして、聞き出そう」
相変わらず言語障害者のようにたどたどしくそう言ってから、ミランは素早く手で空中に陣を描いた。その手の動きの滑らかさといったら、ある種の芸を見ているようだった。
「ナトイ・ハリン」
陣を描き終わると、囁くようにそう言った。途端に、ふわりと彼女の身体が宙に浮かび上がる。
最も簡単な浮遊の魔法らしい。簡単といっても、俺にはとても真似できそうにない手の動きだったが。
彼女は音を立てないように空に浮かび上がると、月の光を遮らないよう気を付けながら小屋の側面まで行き、そこに着地した。
そして再び何かの魔法陣を描くと、突然男たちの身体がぐらりと揺れて地面に倒れた。
ミランが眠らせたのだ。
地面に激突する瞬間に大きな音がしたが大丈夫だったろうか。
俺は素早く森を飛び出し、小屋に駆けた。そしてミランと合流すると、言葉も交わさず男の一人を担ぎ上げる。
ミランも危なっかしい手つきで小柄な方の男を背中におぶろうとした。
その時だった。
突然入り口のドアが開き、立っていた男と目が合った。夕方に出会った髭の男だ。
見張りを背負っていた分、相手の方が反応が早かった。
「夕方の野郎だ! やっぱり来やがったぞ!」
俺は男を放り投げて素早く斬りつけたが、髭男はそれよりも速い動きで後ろに躱した。
こうなったら仕方ない。
俺は抜き放った剣を、寝ている男の首に突き立てた。
「うまくいかないね」
溜め息混じりにそう言いながら、ミランも先程担いだ男の首をひねり、あっさりと息の根を止める。
最悪の展開になった。しかも髭男は「やっぱり」と言っていた。
案の定、奥からバラバラと現れた盗賊たちは、皆簡易ながらも武装していた。とても先程まで寝ていたとは思えない。
「作戦其の九、臨機応変だ」
俺が油断なく剣を構えて言うと、ミランがあたかも今の状況を楽しんでいるかのような弾んだ声を出した。
「了解」
右脚に大きな傷跡のある男が剣を閃かせて斬りかかってきた。
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