どうやら無事にカーレガンの口腔に飛び込めたようだ。
洞窟の奥から漂ってくる腐敗臭に吐き気がしたが、ミネンスはそれを堪えて素早く立ち上がった。
そして手にした槍を思い切り舌に突き刺した。
カーレガンが絶叫した。
「プリエ!」
化け物に吐き出されそうになるのを必死に踏みとどまり、ミネンスは少女の身体を引き寄せた。
「姉さん」
プリエは言われていた通り、何も考えずに自分と姉の手当てを始めた。
自分に出せる限りの力で体調を整えるために力を放出する。
体中に付着した唾液の不快感は取れなかったが、悪臭による頭痛は和らいだ。
ミネンスが術で光を灯すと、不意に大量の唾液が分泌されて、二人はまるで波に飲まれるように喉の奥へ押しやられた。
「うっ!」
プリエは思わずその唾液を飲み込み、あまりの気持ちの悪さに胃の中身を吐き出した。
「大丈夫か?」
「は、はい……」
弱々しく頷く。
術の効果で肉体的な影響はないが、気持ちが悪いことに変わりはない。
ミネンスは剣を抜き放つとそれを適当な場所に突き刺した。そしてそれを支えにして踏みとどまる。
これ以上奥へ押しやられると危険が伴うだろう。
剣を刺したところから噴き出した血と、頭上から滝のように降り注ぐ唾液にまみれながら、ミネンスはプリエに手を放すよう指示した。
プリエは素直にそれに従い、代わりに姉の身体を抱きしめる。
「よし! 行けぇっ!」
自由になった手を生々しく蠢く真っ赤な肉の壁に当て、ミネンスはありったけの力を放った。
竜のくぐもった呻きが体内に響き渡った後、そこから血があふれ出した。
「あっ!」
あまりに液体の量に、ミネンスは思わず剣をつかんでいた手を滑らせてしまった。
途端に、まるで急流を下るカヌーのように、二人は勢い良く喉の奥へ滑り出した。
(まずい!)
ミネンスは覚悟を決めた。こうなればどちらが先に死ぬか、気力の戦いだ。
再び力を溜め、解き放つ。
肉の潰れる音と血のあふれ出る音、それに竜の呻きが聞こえる。
灯りはすでになく、真っ暗な空間は血と唾液と、そして洞窟の奥から湧き上がってきた液体に満たされていた。
それがじりじりと身体を溶かし始め、ミネンスは痛みに顔をしかめた。
(酸か!?)
全身に焼け付くような痛みが走る。けれど、その痛みは断続的に続くものの、ある一定の線は越えなかった。
この状況下にあっても、プリエがミネンスの言いつけを守っていたのだ。
ミネンスは自分にしがみつく温もりを愛おしそう抱きしめると、闇雲に衝撃波を放った。
液体に満たされたそこはまるで水中のようで、もはや口を開けても入ってくるのは粘性の液体だけだった。このままでは溺死する。
自分の身体を抱きしめている妹の腕から力が抜けていくのがわかった。
(プリエ……)
気が遠くなっていく。
ミネンスは自分が吐いているのか呑み込んでいるのかさえわからなくなっていたが、妹を抱きしめる腕だけは決して緩めなかった。
(プリエだけは死なせない!)
心の中で叫び、ミネンスは生命を燃やすように力を込めた。
「死ね、カーレガン!」
彼女のすべてを懸けて解き放った一撃が肉を裂き、外皮を割って竜の腹に穴を空けた。
大量の液体とともに、ミネンスは自分がその穴から投げ出されるのを感じた。
星が散りばめられた美しい空が広がっていた。
草の上で横になったままその空を見つめ、プリエが小さく呟いた。
「勝てましたね、姉さん……」
「そうだな」
同じように空を見上げたまま、ミネンスが答えた。
彼女たちのずっと向こうに、カーレガンの巨大な骸が横たわっていた。
「身体、気持ち悪いですね」
怪我は回復させたが、竜の血が唾液が取れたわけではない。
顔をしかめながら言うと、ミネンスが不快そうに答えた。
「あと、臭いもな」
プリエは小さく微笑んだ。
しっかりつないだ姉の手が温かかった。
今まで生きてきて積み重ねてきたものをすべて失ったけれど、この手を握っていると安心する。
これからどのように生きていけばいいのか、何を信じればいいのか。考えなければならないことが山のようにある。
恐らく一人だったら途方に暮れ、どうすることもできなかっただろう。
けれど、姉さえいればどんな困難でも乗り越えられそうな気がした。
そんなプリエの穏やかな笑顔を横目に見ると、ミネンスはそっと半身を起こし、少女の手を放して立ち上がった。
「姉さん?」
同じように半身を起こし、どうしたのだろうと見上げる妹に、ミネンスは静かに目を閉じ頭を下げた。
「すまなかった、プリエ」
「えっ?」
突然謝られ、少女は慌てて立ち上がって手を振った。
「そ、そんな。別に私、姉さんのこと怒ってません」
姉は黙って首を振った。
「姉さん……」
「あたしは何も罪もないお前をさんざんいたぶった。お前はだまされていただけなんだとわかっていながら、どうしてもああせずにはいられなかった……」
自虐的にそう言って、ミネンスはそっとプリエに小さな袋を握らせた。
布越しに伝わってきた感触で、プリエは中身が金だとわかり困ったように顔を上げた。
「姉さん?」
「あたしはお前に姉と呼ばれる資格はない」
「姉さん……私……」
姉が何を言おうとしているのか察して、プリエは震えた。
「さよなら、プリエ。お前が姉さんって呼んでくれて、あたしはそれだけで嬉しかったよ」
ミネンスの目から涙がこぼれ落ち、彼女はそれを隠すように背中を向けた。
「姉さん、待って! 私……わたしは……」
必死に呼びとめたが、歩き始めた姉の足は止まらなかった。
「姉さん!」
泣きながら追いかけたプリエを置いて行くように、ミネンスを乗せたフェーセが空に舞い上がった。
姉は一度悲しそうにプリエを見ると、そのまま何も言わずに飛び去った。
「姉さんっ!」
プリエは絶叫し、膝を折って鳴咽を洩らした。
草原の草を揺らした風に、少女の泣き声が流れていった。
←前のページへ | 次のページへ→ |