16年前にランザリスクで起きた誘拐事件。
女性の言葉が引っかかる。
後ろめたいことなど何一つしていないこの小さな医院と、遥か昔の物騒な誘拐事件。一体この二つにどんな関係があるというのだろう。
プリエは暗い顔で廊下を歩きながら、医院にいる人々の顔を思い浮かべた。
今カーレガン医院にはプリエも含めて12人の人間が働いており、プリエを除くすべてが17歳以上だった。
けれど、その誰もが素性がはっきりしていたし、明るくて楽しい人ばかりである。誘拐されたような人間がいるとは思えない。
それに女性は、「連続誘拐事件」だと言っていた。「連続」というからには誘拐された人はそれなりにいるはずだが、この医院にはどう考えてもそんな数の人間はいない。
プリエは、実は自分が15歳ではなく、誘拐された内の一人なのではないかということまで考えたが、すぐにそれも否定した。
5年前に他界した母親と自分はよく似ている。それに紛れもなくアジティはフリートと結婚していたし、まさかアジティとプリエがまとめて誘拐された、フリートとはまったく無縁の別の母子というのはとても考え難かった。
次にプリエは、ランザリスクという街について考えた。
ランザリスクは<緑の道>の終点の一つであるが、プリエは行ったことがなかった。
5年前に今いるオーリスタス寺院に来る以前、一行は各地を転々としていたが、一度としてランザリスクには行かなかった。
ひょっとしたら女性の言う通り、プリエの生まれる以前に医院の人たちはランザリスクで誘拐事件を起こし、そのために街に近付けなかったのでは?
そうも考えたが、やはり首を振った。
ここの優しい人たちがそんなことをするはずがないし、第一する理由がない。人間をカーレガンへの供物にしていたというも言うのだろうか。
有り得ない。プリエの記憶の中で、一度としてそのようなことをしたことはなかった。
ロスペクトやフリートが誘拐事件を起こした可能性より、あの女性が勘違いしている可能性の方が遥かに高い。
けれど、どうしても引っかかった。根拠はない。ただ、生まれてこの方、一度としてこのような「事件」に巻き込まれたことがなかったので落ち着かなかった。
ふと足を止めると、プリエはとある部屋の前に立っていた。
父親の私室である。
どうせ考えてもわからないのだし、考えれば考えるほど発想が悪い方へ走っていくのなら、女性の言葉通り父親に確認した方が早いだろう。
一言、「そんなことはしていない」と言ってもらえれば安心できる。
プリエはそっとドアをノックした。
部屋にはフリートだけでなく、彼の父で、プリエの祖父にあたる神父のロスペクトもいた。
「どうした? プリエ。何があった?」
プリエが何かを言う前に、フリートが心配そうな視線を娘に向けた。
怪我を治したからといって、神官服を変えたわけではないから仕方ないだろう。娘の服が血に染まっていて驚かない父親はいない。
プリエは「大丈夫です」と答えてから、先程のことを話し始めた。
「実は、先程ランザリスクの竜騎士が来て、お父さんとお爺さんに会わせろと言ってきました」
「ランザリスク?」
ロスペクトが聞き返し、プリエは深く頷いてから話を続けた。
「危険な感じがしたので、お父さんたちに何かあってはと思ってその場で追い返したのですが、その時に押し問答になってしまって……」
「それで、怪我を負わされたのか?」
フリートが確認するように尋ねた。
プリエは「はい」と答えたが、彼は何も言わなかった。娘が怪我をさせられたことにではなく、娘に怪我を負わすことのできた人間の存在が気になっていたのだ。
「それで、その者の用件は?」
厳かにロスペクトが尋ねた。落ち着いて見えるが言葉には刺があり、竜騎士に対する不快感が滲み出ていた。
「彼女は……あ、来たのは女性だったのですが、その人は16年前に起きたランザリスクでの連続誘拐事件についてと言っていました」
プリエはそう言いながら、二人の顔をじっと見つめていた。わずかな動揺も見逃さないつもりでいたが、彼らは顔色一つ変えず、むしろ不思議そうに考え込むような様子を見せた。
少女は一瞬でも肉親を疑ったことを恥じた。
「お父さんに聞けばわかるとその人は言ってましたが、わかりませんよね?」
プリエの質問に二人は大きく頷いてから、今度は不快感を露にして言った。
「まったく身に覚えがない。むしろ、変な言いがかりをつけられた挙げ句、娘に危害を加えられたことは黙っているわけにいかない。この件については断固抗議しよう」
「それで、プリエよ。その者の名は何と言った?」
祖父に尋ねられてから、プリエは初めて彼女に名前を聞いてなかったことを思い出した。
素直にそう言うと、ロスペクトは「ふむ」と首をひねってから穏やかに笑った。
「まあ、気に病むことはない。プリエには災難じゃったが、何も心配いたすな。カーレガン様は常に正しい者に味方してくださる」
「はい。カーレガン様の御加護がありますことを」
プリエは笑顔でそう言うと、一礼して部屋を出た。
彼らは神の名の前に身の潔白を誓ったのだ。内容に虚偽があるはずがない。
プリエは先程までの不愉快な気分が嘘のように、晴れやかな顔で廊下を歩き去った。
少女の床を蹴る足音が聞こえなくなると、穏やかな微笑みを浮かべていたロスペクトが不意に険しい顔をした。
まるで化けの皮を剥された狐のように、フリートも神妙な面持ちになる。
竜騎士の女性が持ち出したランザリスクの誘拐事件。
それは、紛れもなく亡きアジティも含めたこの三人を主導にして行われたものだったのだ。
「まさか、グランドのヤツか……?」
低い声でフリートが唸った。
グランドとは、16年前の事件で唯一彼らを突き止めたランザリスクの将軍の名だった。
ロスペクトは考えるような素振りをしたが、すぐに頭を振った。
「いや、ヤツは有り得んじゃろう」
ある根拠を持って、神父は確信的に頷いた。フリートもそれをわかっていたが、解せない。
「何故今になって? それに、その竜騎士の女も気になる」
「プリエが負けたことか?」
「そうだ。親父は気にならないのか?」
ロスペクトは首をひねった。
「ならないでもないが、力の強い者なら可能じゃろう。プリエはまだ15だ。むしろ今まで一度も負けていないのが不思議なくらいじゃ」
「それもそうだが……俺は最悪のシナリオを想定している……」
「最悪の……っ!」
聞きかけて、ロスペクトは弾かれたように顔を上げた。
フリートは苦々しく頷いた。
「有り得ないとは思うが、いずれにせよ、そろそろ時が来たのではないかと思っている」
「そうじゃな……」
ロスペクトは腰を上げ、窓から外を見た。
何もない草原とどこまでも広がる青空。
しかし彼の目に写っていたのは、ずっと遠い昔の風景だった。
「ここまで来てすべてが無駄になるよりは、多少のリスクを伴ってでもすぐに行動するべきだと思う。そうしなければ、アジティも浮かばれない」
強い語調でフリートが父親を説得する。
その必死さに打たれたのか、それとも単に彼の考えに同意したのか、ロスペクトは外を見たまま深く頷いた。
「では、次の満月の日に……3日後か?」
「そうだ。3日後の夜に、今までのすべてに片を付けよう」
フリートの言葉に、ロスペクトは大きく息を吐いた。そして、長い旅をようやく終えた旅人のように感慨深く呟いた。
「いよいよか……」
「ああ、いよいよだ……」
フリートも父と同じように窓の側に立ち、空を見上げた。
彼らを見下ろす空は、まるで平和を象徴するかのように、どこまでも澄み渡って広がっていた。
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