緑は眩しくその生命を輝かせていたが、人間たちはげんなりとした表情で歩いていた。
湖が近いことと通気性の問題で、城の中は重苦しい暑さに包まれている。
元々小国で規律も厳しくなく、表向きには平和の続いているウィサンの兵士たちのやる気がなくなるのも、仕方のないことだろう。
そんな気だるさあふれる城の廊下を、燦々と輝く太陽のような笑顔で駆ける少女がいた。
魔術師見習いのユウィルである。
如何に規律の緩いウィサンといえど、本来一介の魔術師でしかない少女が城内に入れるはずがないのだが、彼女だけは特別だった。
国王ヴォラード自らが発行した特例の入城許可証を所持しているのである。かつて彼女が、王女であるシティアの危機を救ったときに与えられたものだ。
恩人として、そして王女の良き友人として、彼女は城内でも優遇されていた。
もっとも、だからと言って少女が頻繁に城を訪れているかと言えばそうでもない。
彼女は研究所で魔法の勉強中だったし、見習いとしての雑用も多く、弱冠13にして忙しい毎日を送っていた。
また、多感な少女は、一人だけ優遇されている自分が、研究所や城の人間に少なからず妬まれていることを知っていたので、王の心遣いが行き届くほど逆に城を訪れることが出来なくなっていた。
ユウィルはいつだって城に行きたかったし、シティアと会って遊びたかった。通行証がなければまだあきらめもつくが、これでは生殺しである。
そんな少女の心中を察してか、彼女の師であるタクトが、用事で城を訪れる際に雑用係としてユウィルを連れてきたのだ。
そして、込み入った話になるので用が済むまでシティアのところへ行っているよう言われた。
ユウィルはそれらの言葉を文字通りの意味で解釈していたが、どちらにせよシティアのところへ行くことができて嬉しいことに変わりはなかった。
一刻でも惜しいと言わんばかりにシティアの部屋まで駆けると、ユウィルは一度服の袖で額の汗を拭ってドアを叩いた。
「シティア様、ユウィルです。入ってもいいですか?」
大きな声でユウィルが言うと、中から「ユウィル?」と嬉しそうに聞き返す声がした。どうやら事前に聞かされていなかったようである。
一瞬、もし城を抜け出しでもしていたらどうしようかと思ったが、結果的にシティアは部屋にいてくれたので深く考えないことにした。
王女の許可が下りたのでドアを開けて部屋に入ると、まず大きく開け放たれた窓が目に入り、次いで位に似つかわしくない質素な机に向かっているシティアが写った。
何か書き物をしているようである。
剣を振り回したり、風のように駆け回っている姿ばかりを見ているユウィルは、まるで文官のような彼女の姿に驚きを隠せなかった。
「シティア様、そうしているとまるで王女様みたいです」
ユウィルは誉め言葉のつもりで言ったのだが、言い終わらない内に、何をどう解釈してもそれは嫌味以外の何ものにも聞こえない気がした。
しかし、訂正するより先にシティアが眉を釣り上げて少女を睨み付けた。
「ユウィル。せっかく遊びに来てくれて、会った第一声がそれなの?」
「ご、ごめんなさい!」
弾かれたように謝ると、シティアはすぐに表情を崩して小さく笑った。
それはつい数ヶ月前までの、人を疑うことしか知らない、荒れていた王女には考えられないような微笑みだった。
ユウィルはまるで物語に出てくる天使でも前にしたかのような気分にとらわれた。
シティアは友達であるが、王女としての友達以上の何か、強いて言うならば風格と気品があることを改めて感じた。
そんな彼女に気楽に話しかけられるだけでなく、自分と会うことで嬉しそうに笑ってくれる喜びを噛みしめながら、ユウィルはそっとシティアの隣に立って、机の上を覗き込んだ。
勉強しているのかと思ったがそうではなく、手紙を書いているようだった。
「親愛なる友、ライフェへ……?」
ちらりと見えた文頭の文字を口にすると、シティアが少しだけ驚いた顔でユウィルを見た。
「ユウィル、文字が読めるの?」
彼女が驚くのも無理はない。
ウィサンの人間は識字率が低く、大人ですらまともに文章を読み書きできる人間が少なかった。
日常生活をする上で、文章を書ける必要がないからである。
そのため、教育もあまり発達しておらず、ユウィルの歳で文字の読み書きができる人間など皆無に等しかった。
ユウィルもそれをわかっていたので、シティアの言葉を悪意なく受け取って得意げに笑った。
「はい。研究所でも教えてくれますし、それに昔から魔法を勉強するためにたくさん本を読んでましたから」
「本? ご両親が文字を教えてくれたの?」
不思議そうに尋ねたシティアに、ユウィルは大きく首を左右に振った。
「いえ、あたしが勝手に勉強しただけです」
「ふーん……」
感心なさそうに相槌を打ったシティアだったが、内心では目の前の少女の発言にひどく動揺していた。
自分は実はとてつもない天才を前にしているのではないかと、彼女を畏怖する念さえ湧き起こっている。
シティアは自分を頭の回転の速い方だと評価していた。事実文字を教わったときも、教師が驚くような早さでそれらを頭に叩き込み、使えるようになった。
けれどそれは、教師がいたからできたことだと思っている。線の組み合わせを文字とし、限られた文字を組み合わせて単語を作り、そこに規則を当てはめて文章を作る。
それは偉大なる古人が考え出した知恵だ。暗記するものであっても、決して自ら生み出すものではない。
それをユウィルは、魔法への探究心だけで自ら文字を解析し、文法規則を学び取った。常人にできることではない。
しかも彼女はまだ13である。確かに大人より子供の方が発想力も吸収力も高いとは言え、若すぎるだろう。
シティアは手に汗を握るような緊張を覚えたが、しかしそれは一瞬のことだった。
例え少女が天才で、将来この世界を変えていくような人間だったとしても、ユウィルはユウィルである。
彼女が王女である自分を普通の友達として扱ってくれているのだから、自分もそれと同じようにするだけだ。
「シティア様。ライフェさんってどなたですか?」
不意に、ユウィルにはしゃいだ声で尋ねられて、シティアは顔を上げた。
友達のほとんどいないシティアが『親愛なる友』と冠するような人間である。ユウィルがどんな人だろうと興味を抱くのも無理ないだろう。
「1年くらい前に知り合った子で……友達よ。ずっと北にあるハイデルに住んでる剣士の女の子で、一度会ったことがあるだけだけど」
言いながらシティアは一通の手紙を差し出した。
恐らく、ライフェという少女から先に届いた手紙だろう。
ユウィルはそれを受け取ると、裏に何も書いてないことを確認してから中を開いた。
思いの他短い文面は、お世辞にも綺麗とは言えない文字でこう綴られていた。
『 ウィサンのシティア王女へ
かつてマグダレイナの剣術大会でお会いした、ハイデルのライフェです。
覚えておいででしょうか。
本当につい先日、あなたが王女であることを知りました。
知らなかったこととは言え、あの日の数々の非礼をお許しください。
ところで、あの日の約束のこと、まだ覚えていてくださいますか?
守ってくださっているでしょうか。
私もあれから何度かの実戦を経験して強くなりました。
王女も私と同じように、あるいはそれ以上に強くなっているかも知れません。
また今度、王女がよろしければお手合わせしていただきたいと思います。
再び戦える日が来ることを楽しみにしています。
ハイデルの騎士団長リゼックの娘 ライフェより 』
短い文面ではあったが、非常に内容の詰まったものだと思った。
「マグダレイナ?」
読み終えてから、ユウィルは少しだけ語尾を上げて呟いた。
文面を見ると、シティアとライフェはマグダレイナの街で出会ったらしい。
マグダレイナは大陸東部に位置する武術の街である。メイゼリスよりも高い街壁と、年に一度の武術大会、それに魔法嫌いの風土で有名な都市だった。
武術大会であれば、遥か北のハイデルの娘と、大陸の中央寄りに位置するウィサンの王女が出会ったとしても不思議はないだろう。
小さな疑問は解決したが、ユウィルがマグダレイナという文字に反応したのはそのせいではなかった。
「ああ、マグダレイナでは毎年武術大会があってね、去年たまたまそれに参加したときに会ったのよ。ライフェと」
ユウィルの疑問に答えるようにシティアが説明した。恐らく、少女がマグダレイナという街を知らないと思ったのだろう。
「それは知っています」
呟くように答えてから、ユウィルはわざわざ言う価値のある内容ではなかったと反省した。
しかし、シティアは特別気を悪くした様子もなく、むしろ驚いたような顔をしてから大きく頷いて手を打った。
「あ、そっか。ユウィル、マグダレイナに住んでたんだっけ」
シティアの目を見つめたまま、ユウィルはこくりと首を振った。
ユウィルはまだほんの三ヶ月前までマグダレイナに住んでいた。文字に反応したのはそのためだった。
「じゃあ、ひょっとしたらどこかで擦れ違っていたかもしれないわね」
楽しそうにシティアが笑って、ユウィルも「そうですね」と声を弾ませた。
それから少女は、もう一度興味津々な顔つきになって王女に尋ねた。
「この『約束』っていうのは何ですか?」
手紙をシティアの方に見せ、文字の書かれた箇所を指で差す。
シティアはしばらく考える素振りをしてから、いたずらっぽい声を出した。
「話、聞きたい?」
明らかに答えがわかっている質問だった。
ユウィルは満面の笑みで二度頷いた。
「はい! 是非聞かせてください」
シティアはそんな少女の明るい笑顔に満足げな顔をすると、スッと立ち上がって座っていた椅子をユウィルに勧めた。
ユウィルは一瞬躊躇したが、シティアが椅子の代わりに窓のへりに腰かけたのを見て、遠慮なく座ることにした。この部屋には、来客の少なさを象徴するかのように椅子が一つしか置いてない。
シティアは一度陽射しの照り付ける城下町に目を遣ってから、再び自分を見つめる少女に視線を戻し、思い出を手繰り寄せるようにゆっくりと話し始めた。
次のページへ→ |