その空の下で、シティアは一心に剣を振るっていた。
サリュートとは今朝から一言も口をきいていない。
レアル母子は、そんな二人のただならぬ様子に困惑気味な表情を浮かべていたが、サリュートが大会前で気が立っているだけだと説明すると、納得したように頷いた。
もちろん嘘である。
シティアは苛立っていた。
昨夜、自分の心に踏み込もうとしてきた青年を責めるつもりもなければ、その行為に腹を立てていることもなかった。
ただ、苛立っていた。
何に対してかはわからない。いや、恐らく自分に対して。
サリュートが自分のことを心配しているのはわかっていたし、彼の言っていることも理解できた。ただ、理屈でわかっていても、感情がついていかなかったのだ。
ずっと独りで戦い続けてきた自分。それを捨てることは、今までのすべてを否定することになる。手にした力も、流した涙も。
昔、「そんなものは捨ててしまえ」とサリュートに言われ、喧嘩したことがある。その時も彼女は、あなたに何がわかるのかと言い放ち、彼を黙らせた。
心が痛んだ。
本当は友達が欲しかった。
彼の言うように笑って過ごして、みんなに好かれたかった。
自分の棘のある物言いが嫌いだった。
せっかく出会えた蒼い髪の優しい少女と、仲良くなりたかった。
思わず込み上げてきた涙を振り払うように、シティアは持っていた小剣を思い切り振り下ろし、返す刀で空を切り裂いた。
「はぁ……はぁ……」
大きく肩で息をして、鬼神のような表情で前方を睨み付ける。何もないそこに、彼女は一人の憎むべき男の姿を写していた。
あの日、彼女の生命を脅かした魔法使い。人生を狂わせた憎むべき相手。
「せぁっ!」
気合いを吐いて、思い切り斬り付けた。そして続けざま、その空間に連撃を放つ。
ただがむしゃらに振り回すのではなく、一分の隙もない洗練された動き。彼女の怒りと嘆きの凝縮された力。
「死ねぇええぇぇっ!」
絶叫しながら凄まじい速度で踏み込み、頭に描いた男を切り裂いた。同時に、すべての雑念を振り払う。
悲しげなサリュートの顔も、彼の震える涙声も。
今までそうして生きてきたのだ。これがウィサンの王女の姿であり、笑顔など自分の身を守る力にならない。必要ないものだ。
そう言い聞かせると、胸がチクリと痛んだ。けれどシティアは、それすら振り払うように、再び剣を振り上げた。
彼女がそうして無心で剣を振るっている頃、サリュートはエデラスと二人で、マグダレイナの街を歩いていた。
相変わらず人でごった返す街は、歩くだけでも一苦労だった。
道々には出店が立ち並び、そこかしこから楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
剣士たちの生命を懸けた戦いも、ここにいる人々には年に一度のお祭りでしかないのだろう。
そんな明るい街の風景に似つかわしくない顔で、サリュートは重々しくため息を吐いた。
昨夜のことはすべてエデラスに話してある。自分はまた王女を傷付けてしまったのではないかと後悔の念に駆られていたのだが、それに関してはエデラスが否定してくれた。
けれど、どうしても彼女の泣き声が頭から離れなかった。
誰かに助けて欲しいという願いと、どうせ無理なのだというあきらめ。それに、放っておいて欲しい気持ち。そんなものがぐちゃぐちゃに混ざり合った涙だった。
サリュートが悲痛な面持ちで地面を睨み付けていると、不意にエデラスがため息を吐いた。
「本当に今さら言ってもしょうがないことだが、俺たちはあの時、一番大切なことを忘れていたようだな……」
見上げると、彼は無表情で道行く人々を見つめていた。
いや、その目にはもっと遠く、遥か過去の日を写していた。
サリュートの前だから平静を装っているが、彼もつらいはずだ。王子よりも数歳若い青年は、自らを奮い立たせるように首を振った。
そして無理に強がって見せ、「まったくです」と呟いた。
王子の言う「あの時」とは、今から5年前、シティアが魔法使いの刺客に襲われた日の後のことだった。
突然の不意打ちに大怪我を負った娘を心配し、彼女の父はすぐに会議を招集して、魔法使いの行方を追うとともに、刺客に対抗するための手段を模索した。
そして思い立ったのが魔法研究所の設立である。目には目を、魔法には魔法しかないと考えたのだ。
それからエデラスは両親とともに忙しく働き回り、幼かったサリュートはその邪魔にならないよう、城に行くのを控えていた。
それがどれくらいの期間だったかは定かでない。ただ一つだけ確かなことは、その間にほとんどシティアをかまえなかったことだ。
彼女を心配し、同じ失敗を繰り返さないよう手段を講じている間中、彼女はずっと独りだった。
全身に傷を負い、痛みに苦しみ、熱にうなされ、夢に涙し、一番誰かにいて欲しいときに彼女は一人きりだったのだ。
彼らがしなければならなかったのは、刺客の行方を追うことでも、魔法研究所を建てることでもなく、シティアの側にいてあげる、ただそれだけだった。
やがてシティアが元気になった頃、魔法研究所が完成したのだが、それは両親の意に反して、彼女の強い反感を買った。
すっかり魔法恐怖症になっていた彼女には、もはや魔法使いは化け物であり、魔法を支援するような施設を建立した両親は、娘を追いつめようとしている裏切り者にしか写らなかったのだ。
その時に出来た溝はあまりにも深く、もはや実兄や幼なじみにも埋めることが出来ないほど彼女の心に刻み込まれていた。
あれから5年が過ぎ、時々笑顔を見せることもあるが、本質的に彼女は変わっていない。エデラスにもサリュートにも、完全に心を許したことは一度としてなかった。
「たぶんもう、俺たちには無理なんだろうな」
あきらめを孕んだ声でそう呟いた王子を見上げ、サリュートは念を押すかのように尋ねた。
「見守るしかないということですか?」
彼は無言で頷いた。
いつか彼女を癒す術を持った者が現れるまで、誰よりもシティアを愛する男たちにできることは、ただ見守るだけだった。
サリュートは小さく首を振り、天を仰いだ。
まだ耳にこびりついている少女の叫びが、刺のように胸に突き刺さり、ズキズキと鈍く痛み続けている。
これは、あの日何もしなかった自分への罰だ。まだ10歳だった幼い少女は、この何十倍、何百倍という苦しみを味わったはず。
サリュートは込み上げてきた涙を拭い去ると、塊を吐き出すように息をつき、話題を変えようとエデラスを見遣った。
「そういえばエデラス様。ご報告しなければならないことがあります」
「ほお」
王子も話題を変えて欲しかったのか、少し声を大きくして、興味深そうにサリュートを見下ろした。そして意外なことを口にした。
「ライフェのことか?」
「彼女を知っているのですか?」
驚いてサリュートが問いかけると、エデラスは可笑しそうに笑い声を立てた。
「ウィサンは、北の国には何かと縁がある国だからな」
言われてサリュートは納得した。
魔法研究所を立てたときも、魔法にまるで関心のなかった小国に尽力してくれたのが、北方の魔法王国ヴェルクだった。
「昨日ひどく怒られていたぞ、リゼック殿に。帰りが遅いとな」
あの生真面目なライフェのことだ。事情も話さずに大人しく謝っていたのだろう。
サリュートは昨夜の少女を思い出して目元を緩めた。しかしすぐに表情を引き締める。
「ライフェのこともそうですが、お話したいことはそのことではありません。実は昨日、ゼラスが現れたのです」
「ゼラス?」
足を止めてしばらく考え込んだ後、エデラスは厳しい眼差しを向けた。
「第12回大会の優勝者か?」
「そのゼラスです」
やはり知っていてくれたかと、サリュートは安堵の息を洩らした。不要な説明が省けた。
「昨日、シティアがそのゼラスとやり合う瞬前までいきました。彼はそこそこ腕の立つ、柄の悪い連中を引き連れていました。ひょっとしたら何か悪いことが起きるかもしれません」
「なるほどな……」
往来で突然足を止めたせいか、迷惑そうな視線を感じたエデラスは、思案顔のまま再び歩き始めた。そして前方を見据えたまま、声のトーンを落として言った。
「わかった。どうせ聞き入れてはもらえないと思うが、責任問題になるからな。一応王に進言しておこう」
「はい。それと、どうかエデラス様もお気を付けください」
サリュートの気遣いを受け止めるように頷いてから、エデラスは同じようにサリュートを気遣い、最後に「くれぐれもシティアを頼む」と付け加えた。
サリュートは小さく笑った。
「シティアは大丈夫ですよ」
「何故だ? 巻き込まれないとも限らないだろう。仮にも相手は大会優勝者。あの子の気性を考えれば、向かっていってもおかしくはない」
心配そうなエデラスの声に、サリュートは嬉しそうに表情を崩した。自分の愛する少女を、王子も深く愛してくれていることが嬉しかったのだ。
「シティアは勝てると言っていました。だから、大丈夫でしょう」
それだけ言って、サリュートは悲しそうに笑った。
「あの子は短気ですが、何もなしに勝てない相手に向かっていくほどバカではありません。孤独ですが、生命を大切にしていますから。もし生命を軽視しているとしたら、彼女はすでにここにはいなかったはずです」
「そうだな……」
感慨深げに呟いて、それから二人は言葉を交わさずに歩いた。
遥か前方に聳え立つように高いマグダレイナの城が建っている。やがてその城門と街門とをつなぐ太い道に出ると、エデラスは足を止めてサリュートを見た。
「それでは、俺は城に戻るとしよう。ああ、その前に一つだけお前に言っておきたいことがあるのだが……」
「なんですか?」
特別深刻そうな様子ではなかったので、サリュートは気楽な気持ちで先を促した。
「うむ。お前のことだから大丈夫だとは思うが、くれぐれもシティアの正体を知られないようにして欲しい。もし何かが起きて正体が気付かれそうになったら、俺のことはいいから、二人で先にこの街を出てくれ」
「そうですね。わかりました」
少しだけ考えてから、サリュートは頷いた。
「二人でウィサンまで帰れば良かったですか?」
「いや、それでは路銀がもたないだろうし、俺も帰り道に護衛が欲しいからな。そうだな……。ほら、あの卵のスープが美味かった宿があるだろう。あの宿場街で落ち合おう」
王子に似つかわしくないやんちゃな顔をして、エデラスが笑った。彼の言う護衛とは妹のことである。
日頃真面目一辺倒の彼も、こうしたひどく人間臭い一面がある。サリュートは彼のそんなところに好感を持っていた。
「わかりました。それでは次は大会の日にお会いしましょう」
「わかった。くれぐれもシティアを頼んだぞ」
「はい!」
元気に頷いて、サリュートは王子に背を向けた。
空はよく晴れている。
いつか愛する少女の心も、この空のように晴れてはくれまいか。
そんなことを願いながら、彼はしばらく空を仰ぎ、じっとその青を見つめていた。
街は大会前の喧騒に包まれている。
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