義理で招待したウィサン国の王子の忠告を、まともに聞き入れ、対応した者がいたからである。
マグダレイナの第二王子フィアンだった。
フィアンはエデラスからゼラスの話を聞き、自分の親兄弟が真面目に対応する気がないのを見て、自ら率先して兵を集め、事前に何か起きる可能性を彼らに示唆していた。
しかもその「何か」を、彼はかなり正確に予測していた。短期間にゼラスについて調べ、彼がならず者を引き連れて街に現れた理由を自分なりに突き詰めたのだ。
その結果、兵士たちは彼らの襲来にも動じることなく、統制の取れた動きで対処することができた。
ただ一つ誤算だったのは、ゼラスが来賓席に単身で乗り込んできたことである。
フィアンは彼の狙いをわかっていたので、当然ゼラスは自分たちの許に最もたくさんの人員を割いてくると考え、多くの兵士を配置していた。
それが仇になった。
幅が狭く、一度に戦える人数や武器の種類を制限されるスタジアムの通路では、ゼラスを止める手だてがなかったのである。
また逆に、観客席やマグダレイナの街自体の守備を手薄にしてしまったため、必要以上の兵士と民衆を犠牲にすることになってしまった。フィアンの読みの甘さが犠牲者を増やしてしまったのだ。
もっとも、もし彼がエデラスの話を彼の親兄弟と同様に扱っていたら、被害はこれだけでは済まなかっただろう。その意味でフィアンは十分活躍したと言ってよいが、本人は納得していなかった。
観客席やスタジアムの外から立ち上っていた煙が、少しずつ沈静していくのを来賓席の窓から見つめながら、フィアンが渋い顔で口を開いた。
「どうやら、外は鎮圧できたようだな」
「そのようですね」
彼の隣に立ち、同じように外を見ながら答えたのはエデラスである。
「エデラス殿には感謝の言葉もないが、まだまだ私も未熟だな。多くの民衆を犠牲にしてしまっただろう」
悔しさをかみしめるように声を絞り出したフィアンに、エデラスはかける言葉を持ち合わせてなかった。
いや、何も言う必要がなかった。
人は失敗を繰り返して生きていくのだ。そうして強く成長していく。
フィアンの今回のミスは、死者が出てしまったことは遺恨が残るが、王子としては取り返すことのできるミスであろう。
少なくとも、5年前に、一人の少女の兄として犯してしまった自分のミスよりは。
「後は、ゼラスだな」
フィアンが他人事のように呟いた。
スタジアムの内部に入り込んだゼラスがどうなったか、まだ報告は入ってきていない。
もしここまで来られたら、結局すべてが無駄になってしまう。フィアン自身も含めて、ここには彼と戦えるような人間は誰一人としていない。
自分のことにも関わらず、自分ではどうすることもできない歯痒さに、フィアンは爪をかんだ。
けれど、そんなフィアンとは対称的に、エデラスは落ち着いていた。
別に彼は、フィアン以上に他人事のように捉えているわけでも、達観したわけでもなかった。ただ、前に街で妹の幼なじみに言われた言葉を思い出していたのだ。
「シティアは勝てると言っていました。だから、大丈夫でしょう」
自分よりも妹のことをよく知っている青年がそう断言したのだ。未だにシティアの強さは信じられないが、恐らく大丈夫なのだろう。
ゼラスは、あの二人の少女が止めてくれる。エデラスはそう信じていた。
そしてその期待通り、彼らがそうして街を見下ろしている間に、シティアは今度の騒動の発起人を闇に屠っていた。
ゼラスから抜き去ったレイピアの血を拭い取ると、シティアはそれを鞘に収めた。
ゼラスの身体が力なく倒れ、無抵抗に頭が床にぶつかる音がした。生きていればかなり痛烈だったろうが、幸か不幸か彼はすでに痛みを感じる身体でなくなっていた。
シティアはライフェに背を向けたまま、破けた衣服を重ねるようにして肌を隠し、きつく紐で縛った。角度的に、恐らくライフェにはまだ見られてないだろう。
シティアとて女である。自分ですら目を背けたくなるようなものを他人に見られたくなかった。
思い切り縛るとライフェに斬られた傷がズキリと鋭い痛みを発した。シティアは一瞬顔をしかめたが、そのおかげで肌は完全に隠れたらしい。
何食わぬ顔で振り返り、ライフェの側で膝立ちになった。
「大丈夫? ライフェ」
心の底から心配する顔で尋ねると、ライフェは元気に頷いた。
「大丈夫です。サリュートが手当てしてくれたから、じっとしていれば平気です。血も止まったみたいですし」
「そう」
ほっと息を吐いてから、シティアは我がことのように幼なじみに「ありがとう」と礼を言った。
サリュートは、あの冷酷非情な王女から感謝の言葉を聞いて、驚きに目を大きくした後、嬉しそうに顔をほころばせた。
シティアはこの街に来てから変わった。性格も丸くなったし、普通の少女のように笑顔を見せるようになった。
きっと国に戻っても大丈夫だろう。サリュートはそれが何より嬉しかった。
「それにしてもライフェ。決勝戦、決着がつけられなくて残念だったわね」
ふっと表情を改めて、シティアが残念そうに呟いた。
奥義を使ってなお、強力なカウンター攻撃でシティアを切り裂いたライフェ。せっかく剣士として持つ、強い者と出会ったときの喜びに浸っていたのに、ゼラスによって水を差されてしまった。
もちろん、ライフェが元気であれば決勝の続きを行うことも可能だったろうが、彼女はすでに動けるような身体ではない。当分安静にしていないといけないだろう。傷は少女の笑顔ほど浅くない。
シティアは中断された決勝を思い出して、渋面になった。
しかし、そんなシティアに、蒼髪の少女は穏やかな瞳で首を振った。
「いえ、もういいんです」
「え? どうして?」
ライフェは自分の感じたものと同質の喜びを、あの戦いで得ることができなかったのだろうか。
シティアがそう思って悲しそうな顔をすると、少女はそんな彼女の心を読んだのか、
「もちろん、私もシティアと戦いたいです」
付け足すようにそう言ってから、あきらめたような瞳をシティアに向けた。
「でも……私は自惚れていました。今回この大会に参加して、それがよくわかりました。フラウスやゼラス、それにシティア。世の中にはまだまだ強い人がたくさんいるんだなって」
「ライフェ……」
「例え決勝で私が勝ったとしても、それは私がシティアという人間に勝ったことにはならないと思うんです。ただ、私が一番得意とする剣という分野で勝っただけ。私はシティアと、歳の差以上の器の違いを感じました。今回は、そのことがわかっただけで満足です」
そう言って、ライフェは晴れやかな顔で微笑んだ。迷いのない笑顔。明日を見つめる瞳だ。
ライフェはまだまだ強くなる。
シティアはそう確信して、力強く頷いて応えた。
その時、来賓席のある奥の方から足音が聞こえてきた。向こうから来たのだから、恐らくマグダレイナの者か、来賓の誰かだろう。
シティアは一連の騒動を見て、ゼラスがここに自分の他に誰一人として送り込んでいないことがわかっていたので、絶対の自信を持ってそう考えた。
「シティア」
サリュートが声をかけ、ウィサンの王女は小さく頷いて立ち上がった。
「ライフェ、私、もう行かなくっちゃ」
これ以上ここにいたら、恐らくゼラスを倒した者としてシティアの名は国中に広まることになるだろう。そうなれば、正体が暴かれるのも必至である。
「え? シティア?」
あまりにも唐突に別れの瞬間が訪れたため、ライフェは困惑した。そして彼女がいなくなってしまうことを実感すると、まるで親に置いて行かれた子供のような顔になった。
「シティア、どうして? もう行ってしまうの?」
悲しそうなライフェの顔を見て、シティアは困ったように瞳を揺らしたが、すぐに明るい顔をした。
「うん。ごめんなさい、ライフェ」
出会いがあれば別れもある。今まで幾度となく繰り返してきたことだ。
けれど、明るい顔をしたのはそれに慣れてしまったからではない。
別れがあれば出会いもまたある。ライフェとは、これで今生の別れになるわけではないのだ。
「また会いましょう、ライフェ。どこかで必ず」
それだけ言うと、シティアはライフェに背を向けた。
「シティア!」
ライフェが痛みを堪えて立ち上がり、大きな声で赤毛の少女を呼び止めた。
そして驚いた顔で振り返った彼女に、泣きながら、それでも無理に笑って言った。
「一つ、約束してください」
「約束?」
シティアが不思議そうに聞き返す。
少女は涙で輝く深青の瞳で真っ直ぐシティアを見つめて、力強く頷いた。
「今度会うときまで、誰にも負けないって約束してください。私がシティアを越えるまで、誰にも負けないでください。私より強いのは、シティア一人で十分です」
とても礼儀正しく、謙虚な心を持ち合わせながら、反面14歳の少女らしい意地っ張りなところと自尊心を持ち合わせたライフェの、心からの願い。
シティアは嬉しさのあまり、心の覆いを取り払ったあの天使のような笑顔で頷いた。
「わかったわ」
スッと差し出した手を、ライフェが強く握った。
「じゃあね、ライフェ」
「はい! また、必ずどこかでお会いしましょう」
手を離すと、サリュートがライフェに軽く会釈してから、幼なじみの少女を急かした。
シティアは最後に小さく手を上げると、それっきり振り返らずに駆けた。
ライフェは頬を涙で濡らしながら、じっと彼女の背中を見つめていた。
まるで瞳に焼き付けるように、やがてその赤色の髪が見えなくなるまで、見つめ続けていた。
抜けるような青空が広がっている。
血の匂いに汚れた胸を浄化するように、新鮮な空気を思い切り吸い込んで、シティアは足を止めて振り返った。
マグダレイナの高い街壁が、随分小さく見える。
「シティア。あんな別れで良かったのか? ライフェのこと」
少女の隣に立ちサリュートが尋ねると、シティアは「いいのよ」と笑って答えた。
それから彼女はサリュートの方へ向き直ると、澄んだ笑顔で彼を見上げた。
「私、ここに来て良かった。レアルさんみたいな親切な人にも会えたし、ライフェにも会えた。フラウスは、結局よくわからない人だったけど強かったし、嫌なこともあったけど、すごく楽しかったわ」
「そうか……」
サリュートは嬉しさのあまり、思わず涙が出そうになるのをぐっと堪えた。
あのシティアが笑っている。
もう一生見られないのではないかとあきらめたこともあった。けれど、ライフェやレアル、旅の最中に起きたこと、出会った人たちすべてのおかげで、王女が笑っている。
サリュートは思わず鼻をすすって、涙がこぼれないように空を見上げた。
そんな彼の手を取って、シティアが明るい声を出した。
「さ、帰ろ。私たちの街に」
再び二人は歩き出す。緑をかき分けるようにして、ずっと続いている街道を。
すっかり春めいた穏やかな風が、シティアの長い髪を揺らして吹き抜けていった。
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