「うっ……」
「あ、大丈夫?」
心配そうに覗き込む青年に、ライフェは血塗れた額に汗を浮かべて、弱々しく微笑んだ。
「ひどい怪我だ。すぐに応急処置をしよう」
血を見たら卒倒しそうな青年だったが、さすがはシティアと一緒にいる人間だけあって、土壇場での度胸は大したものだった。
すぐそこにゼラスが剣を持って立っているにも関わらず、青年はまるでそのことを気にすることなくライフェの手当てを始めた。もちろんそれも、こちら側で立っている赤毛の剣士に、絶対の信頼を置いていることだからできることだろう。
(シティア……。勝てるの……?)
サリュートの手当てを受けながら、ライフェは霞む目をしっかりと見開いて、シティアの横顔を見つめていた。
シティアとゼラスは、互いに睨み合ったまま対峙していた。
ライフェを相手にしていたときとは、明らかにゼラスの表情が違った。まるで余裕のない、険しい眼差し。
彼がかかって来ないのを見て、シティアが油断なく剣を構えたまま口を開いた。
「ねぇ、ゼラス。あなたは一体何をしようとしたの?」
マグダレイナの元兵士は何も言わなかった。
「私かあなた。どうせどちらかが死ぬんだから、話してくれてもいいんじゃない?」
シティアが再びそう言って話を促した。しかしその言葉に反して、彼女の顔にはうっすらと薄い笑みが貼り付いていた。自分が負けることなど微塵も考えていないのだ。
彼の中でどのような思考があったのかはわからないが、やがて彼は観念したように低い声で話し始めた。
「これは、復讐だ……」
「復讐?」
シティアは眉をひそめて聞き返した。少なくともレアルから聞いた話だけでは、彼は誰かに対して復讐という言葉を使えるようなことはされていないはず。
しかしゼラスは表情を険しくして頷くと、低い声で言った。
「マグダレイナ王家に対する復讐だ」
第13回大会の準決勝で、ゼラスは禁を犯して頭を攻撃し、相手を殺してしまった。いや、本当は禁を犯してはいなかった。
彼は頭を狙ったわけではなかった。ただ、他の部位を狙った際に偶然頭に当たってしまったのだ。
ルールではそれは反則にならないが、それで相手が死んでしまったために、彼は失格となった。特例ではなく、意図的に頭を狙ったと判定されたのだ。
ゼラスは自分がルールを犯していないと主張したが聞き入れてもらえず、むしろ相手を殺しておきながら言い訳をする彼に対して、世間は冷たい眼差しを向けた。
その後はレアルの話にもあった通り、相手の男が仕えていた貴族とマグダレイナが揉め、ゼラスは兵役を解雇された。
職を失くし、国を追われたゼラスは、妻と子とともに旅を余儀なくされた。
「ふーん」
ゼラスが息を入れたので、シティアが無表情で相槌を打った。
「それから?」
彼の話では、その後親子はルトゥーナを経てメイゼリスまで旅をした。大きな街に入るたびに彼は剣を使った職を探したのだが、受け入れてくれる者はなかった。
剣術大会の噂が広まっていたのがその理由である。彼は12回大会の優勝者だったため、事件の注目度も他の事例より遥かに大きかったのだ。
そうこうしている内に路銀が苦しくなり、ついに堪え切れなくなった妻と子が彼の前から姿を消した。
生活が苦しかったからだけではない。ルール違反してまでも勝ちにいき、人を殺した男の妻と息子。彼らは人々からそういう目で見られ続けていたのだ。精神的疲労は計り知れない。
生き甲斐を失い、ゼラスに残ったものは怒りと憎しみだけだった。
相手が死んでしまったからといって、ルール違反にされたことが悔しかった。ゼラスを解雇するようマグダレイナに持ちかけた貴族が憎かった。それがなければ、ゼラスは大会優勝者として尊敬され、平和で幸せな生活を送っていたはずなのだ。
「だから俺はここに戻ってきた。マグダレイナ国家を、俺と同じ目に遭わせるために!」
ゼラスは来賓の王侯貴族を殺すことで、マグダレイナに復讐しようと考えた。
自らが招いた剣術大会で各国の有力者が殺されたとあっては、マグダレイナも世間的な立場を失う。
そのために彼は、長い年月をかけて準備をしてきたのだ。
彼が話を終えると、サリュートに介抱されながら、壁にもたれていたライフェは悲しげに眉をゆがめた。
もしも自分が同じ立場なら……。過ってシティアを殺し、ハイデルから追われ、自分や両親が人々に恨まれることになった。
そう思うと、急にゼラスが哀れに思えてきたのだ。
しかし、そんなライフェとは対称的に、ウィサンの王女は冷たい瞳で立っていた。
「それで? まさかそれだけじゃないでしょうね」
ライフェが驚いた顔でシティアを見る。
「それだけ、だと?」
ゼラスの顔から、スッと表情が消えた。
レイピアを握り直し、シティアは大きな声でもう一度繰り返した。
「そうよ。それだけかって聞いたの? たったそれだけのことで、あなたはまったく罪もない人たちを襲ったのかって聞いたの?」
ゼラスの顔が憤怒にゆがんだ。
「貴様に何がわかるかっ!」
怒鳴り声とともにゼラスが剣を振り上げ、シティアに斬りかかった。
「貴様みたいな小娘に、生き甲斐のすべてを奪われた俺の憎しみがわかってたまるかっ!」
風を切る轟音を立てて振り下ろされた剣を、シティアは足を使って躱すのではなく、剣で受け止めにいった。
(折られる!)
ライフェが、そしてサリュートですら青ざめたが、しかしシティアの剣は折れなかった。
ガギッ!
片手で柄を握り、もう片方の手で刀身の腹を押さえた状態で、シティアはゼラスの剣を真っ向から受け止めた。
「何っ!?」
彼も、まさか非力な少女が自分の力を止められるはずがないと思っていたのか、驚愕に眼を見開いた。
シティアは冷ややかな笑みを浮かべ、唇の端を釣り上げた。
「驚いてるみたいね。こんな細い剣で止められたことが」
「ぬぅ。この剣、ただの剣ではないな!」
「まさか!」
シティアは彼の剣を跳ね上げると、支えていた方の手をどけて、凄まじい勢いで剣をゼラスに突き出した。
「あなたの憎しみより、私の憎しみの方が遥かに強いってことよ!」
高速の剣がゼラスの腹をえぐった。致命傷に至らなかったのは、さすがは大会優勝者といったところだろう。
「黙れっ!」
痛みも感じないのか、ゼラスが絶叫しながら剣を振るった。
ゴゥッ!
空気の斬れる、ものすごい音がする。速度も威力もフラウスの非ではない。経験と憎しみによって生み出された力だ。
けれどシティアは、それを素早く後ろに跳んで躱した。その拍子に服が裂け、少女の白い胸と腹が露わになる。
その瞬間、ゼラスは信じられないものを見たというように、驚きに目を丸くした。
「そ、それは……」
彼女の腹部に、醜い大きな傷跡があった。しかも一つや二つではない。
昔、魔法使いの刺客に襲われたときにやられたものだ。
シティアは両脚でしっかりと着地すると、すぐさま軸足に力を入れて床を蹴った。
「何が憎しみよ!」
レイピアが閃く。
ゼラスはそれを弾き返すべく剣を振るったが、もはやそれは人間の反応速度で受け止められるものではなかった。
彼の腕から血が迸った。ゼラスが呻きながらよろめく。
シティアはそんな彼を睨み付ける顔に強い嫌悪感を表して叫んだ。
「あなたみたいな人に『憎しみ』なんて言葉使われたら、『憎しみ』が安っぽく聞こえるわ!」
血を吐くように言い放って斬撃を応酬する。
一体彼女がどこを何度突いたのか、もはやその場にいた天才にもわからなかった。
ライフェは息をするのも忘れるほど彼女の動きを凝視し、ようやく昨夜の父親の言葉を理解した。
「決勝戦はお前が勝つだろう」
彼が何故「決勝戦は」と付け加えたのか。
考えてみれば簡単なことだった。どうして今まで気付かなかったのか、ライフェは自分の情けなさに笑いすら込み上げてきた。
彼女はレイピア使いであって、本当の意味での剣士ではない。出会った日、彼女がレイピアを持って構える姿を見ているのに、何故気付かなかったのだろう。
ライフェは自虐的に笑いながら自答した。それは彼女が、ろくに使ったこともないはずの「剣」という武器を、あまりにも見事に使いこなしていたからだ。
彼女はレイピア使いでありながら、「突く」ことなしでヴリーツはおろか、生粋の剣士であるライフェとも互角に戦っていた。
自惚れていた。未熟だった。
もしもルールという足枷なしで、初めから互いが得意武器を持って本気で戦っていたら、自分など今のゼラス以上にシティアの足元にも及ばなかったのだ。事実ゼラスにすら、思いもしなかった強力な蹴りを受けて屈服した。
「はは……」
ライフェは泣きそうな顔で小さく笑った。
ゼラスはすでに満身創痍だった。体中から血が流れ、足元もフラフラしていておぼつかない。
剣を振り上げようにも出来なかった。腕も肩も手も、すべてが感覚をなくしている。否、体中のすべてがだ。
それでもシティアの剣は止まらない。ライフェに切られた傷口から流れる血が古い傷跡を赤く覆っていたが、シティアは狂ったように剣を振り続けていた。
怒りに燃え盛る目は、もはやゼラスを映してはいなかった。青色の髪の魔法使い。少女の人生を無茶苦茶にした男。
「お前ごときが、軽々しく『憎しみ』を語るなっ!」
見ていたライフェやサリュートが怯え竦むような怒声を轟かせて、シティアのレイピアが唸った。
それは真っ直ぐ、まるで吸い込まれるようにゼラスの額に埋まり、彼の二つの眼がカッと見開かれた。
第12回剣術大会優勝者、ゼラスの最期だった。
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