ところどころから人々の怒号が響き、それに悲鳴が混ざる。
(乱闘?)
ゼラスが引き連れていたならず者どもを思い出し、シティアが渋面になった。しかし、いくら一般人相手とは言え、この人数である。素手で戦いを挑むのは無謀というもの。
あるいは、武器を持って集団で入り口を強行突破したのかも知れない。むしろその可能性の方が高い。
(だとすると、ゼラスの目的は……?)
シティアは素早く思考を巡らし、彼の狙いに見当を付けた。
まさかあの男が、無差別殺人がしたいだけでこのようなことをするとは思えない。だとすれば、会場をざわめかせているのは恐らくマグダレイナの兵士たちを攪乱し、分散させるためだろう。
彼の目的は、来賓席に集まった各国の王侯貴族たちだ。もっとも、何故ゼラスが彼らを狙うのか、その理由はわからなかったがシティアはそう確信した。
すぐさま走り出そうとしたシティアを、ライフェが慌てて呼び止めた。
「シティア!」
「何!?」
振り向き、早口で問いかけたシティアに、彼女は困ったように瞳を曇らせた。
「わ、私は何をすればいいですか?」
少女の言葉に、シティアは一瞬驚いたが、すぐに気が付いた。
いつも一人で考え行動してきた自分と、常に誰かとともに在り、命令に従って生きてきたライフェが同じように状況判断をできるはずがない
それに、元々シティアは王女という他人を使う立場にあったが、彼女はいくら強くても一介の兵士でしかないのだ。
シティアは持っていた練習用の剣をライフェに向かって放り投げると、
「来賓席に行って! そこで守るべき人を守って! ゼラスは必ずそこに行く。ゼラスを止めて。でも、絶対に一人で戦っちゃダメ。今のライフェじゃ彼に勝てないから」
素早くそう指示を与えて舞台から飛び降り、ライフェの落とした剣を拾い上げた。
「シ、シティアはどこへ行くの?」
背中から聞こえたライフェの声に、シティアは、
「お世話になった人に挨拶してくる」
短くそれだけ言うと、全速力で駆け出した。
お世話になった人とは、レアル母子のことである。彼女は恐らくもう彼らの家に戻ることはないだろうと予感していた。
二人が観客席のどこにいるかは知っている。真っ直ぐ、シティアは駆けた。
そんなシティアに背中を向けて、ライフェは複雑な表情で走っていた。
来賓席へは、参加者の控え室からスタジアムの内部に入り、そこから行くことができる。もちろん兵士たちに守られてはいるが、ライフェなら入れてもらえるだろう。あるいはもう守られていないかも知れない。
しかし、ライフェが複雑な顔をしていたのはそのせいではなかった。父親は確かに心配ではあったが、そう簡単に倒される男ではない。相手がゼラスだったとしてもだ。
ライフェの胸中にあったのは、シティアへの嫉妬心だった。
あの状況で素早く為すべきことを判断し、的確に指示を与える彼女とは対照的に、ただ慌てるだけで何もできなかった自分。そもそもライフェが戦いに集中している中で、いち早く異変に気が付いたのも彼女だった。
幅広い視野と、思考の柔軟性。状況判断や指示能力。すべてにおいて彼女はライフェを勝っていた。
彼女は一つ年上だが、後一年で自分はあれだけの能力を身に付けられるだろうか。
謙遜こそするものの、ライフェは「天才だ」と周りから誉め称えられてきた自分に密かな自信を持っていた。いや、持っていたことに気が付いた。
同じ年代の、自分よりもすごい人間を見たことで、プライドというものを持っていたことを知ったのだ。
ライフェは悔しさを堪えて駆けた。悔しんでも仕方ないのはわかっていたが、敗北感に涙があふれてくる。
不意に、来賓席へ続く通路の一つから見知った青年が走ってくるのを見て、ライフェは足を止めた。
「サリュート!」
名前を呼ぶと、彼は足を止め、方向転換をしてライフェの許へ駆けてきた。手にはシティアのレイピアを持っている。
「ライフェ、シティアは? 一緒じゃないのか?」
息を切らせながら尋ねたサリュートに、ライフェは彼女の言葉をそのまま伝えた。
「レアルさんのところか。ありがとう、ライフェ!」
「あっ、サリュート!」
来賓席の状況がどうなっているのか聞こうと思い、慌てて声をかけたが、彼は頭にシティアのことしかないように、振り返らずにライフェの来た方向へ行ってしまった。
ライフェはしばらく呆然と彼の背中を見つめていたが、ふと状況の不自然さに気が付いた。
「サリュート、どうして来賓席から……?」
もちろん、こういう状況に備えてエデラスの許で待機していたのだが、ライフェはそんなことは知らない。
釈然としない思いがあったが、今はそんなことを考えている場合ではなかったので、「貴族だから」という理由で納得することにした。
ライフェはサリュートの出てきた通路へ飛び込んだ。
すると、自分の前の方を、兵士の一団が走っているのを見て、彼女は大きな声で彼らを呼び止めた。
「あの!」
「ライフェ殿?」
驚きの目で見つめる彼らの許まで駆け寄ると、ライフェは一番軽い剣を貸してくれるよう頼んだ。今持っている競技用の剣は、力の強い者が相手を叩き潰すために使うのならともかく、斬ることを重視している少女が実戦で使うには役不足だった。
彼らは喜んで彼女に剣を与えた。
ライフェはそれを持ち、彼らとともに奥を目指した。
シティアに斬られた傷がズキズキと痛んだが、我慢する。それは今頃レアルの許にいる少女も同じはずだったし、この戦いさえ乗り切れば適切な治療を受けられるのだ。泣き言を言っても仕方ない。
しばらく走ると、奥から剣のぶつかり合う音と、人の叫び声が聞こえた。
「誰か戦ってる!」
角を混ざったそこに、いくつもの死体が横たわり、床や壁を朱に染めていた。そしてその中央に立つ男。
「ゼラス!」
ライフェは足を止めて剣を構えた。その横を、兵士たちが気合いを吐きながら突撃する。
「貴様ぁぁっ!」
どうやら彼らは、相手があのゼラスであることに気付かなかったようだ。
「いけない!」
ライフェが止めたときはすでに遅かった。
ゼラスがわずかに動くと同時に、凄まじい悲鳴をあげながらまた新しい死体が積み重ねられた。
「あぁ……」
ライフェはその光景と、むせ返るような血の匂いに吐き気を覚えた。
そんな少女にいつかの射抜くような瞳を向けて、ゼラスが言った。
「あの時の子供か。まさか、あのライフェだったとはな」
酒場でのことを覚えていたようである。
ゼラスは彼女の方を向き直り、手にした剣を大きく振った。
刀身を赤く染め上げていた血が雨のように飛び散り、ライフェの頬を濡らした。
「あの時は部下が世話になった。お礼をしよう」
剣の天才を前にして、第12回大会の優勝者は、まったくその表情を変えずに静かに剣を構えた。
ゼラスと真っ向から対峙し、ライフェは一瞬、戦うべきか逃げるべきかを逡巡した。シティアの言葉を思い出したからだ。
「絶対に一人で戦っちゃダメ。今のライフェじゃ彼に勝てないから」
彼女はそう言っていた。
それがもしも、自分より上の人間から与えられた命令であれば、恐らくライフェも従っただろう。しかし彼女はただの友達である。
それに、「勝てない」と断言されたのが悔しかった。それは弱いということだろうか。
もちろんシティアは怪我のことを言っていたのだが、ライフェは彼女の言葉を完全に取り違えていた。
「私なら勝てるが、あなたでは勝てない」
まるでそう言われたようで、ライフェの胸に彼女を見返したい思いが沸々と湧き起こった。
ライフェは唇をかむと、強く剣を握り直した。そして、
「せぁっ!」
思い切り踏み込んでゼラスに斬りかかった。
まさに目にも止まらぬ速さだった。
ゼラスは「ぬぅ」と呻いたが、彼女の剣を受け止めた。そして鍔迫り合いに持ち込み、彼女の剣を弾き返す。
がら空きになった胴に豪腕を唸らせたが、ライフェは一テンポ速くそれを躱していた。
再びライフェが斬りかかり、二人は剣を打ち合わせた。
激しい動きに堪えかねたように、フラウスやシティアから受けた傷口が開き、そこから血が滴り落ちる。
けれど、ライフェの精神は最高潮に高まり、痛みなど気にならないかのような動きを見せた。
少しずつゼラスが押され始め、ライフェは顔に余裕の表情を浮かべた。
(勝てる! シティア、私、一人でもゼラスに勝てます!)
そう思った刹那。
「剣だけで勝てるのは大会だけだぞ、小娘」
「えっ?」
ライフェの放った剣を、ゼラスはふっと剣を引いて受け止め、彼女はわずかにバランスを崩した。
その瞬間、ライフェは腹部にものすごい衝撃を受けていた。ゼラスが蹴りを叩き込んだのだ。
「うっ……」
軽い少女の身体が宙に浮き、そのまま壁に叩き付けられた。
反射的に悲鳴をあげたが、それは声にならなかった。蹴られたショックで息ができない。
痛みを堪えてまぶたを開くと、すぐそこにゼラスの剣があった。
ライフェは転がるようにしてそれを躱したが、間に合わなかった。切っ先が額をかすめ、巻き付けていた白い布がはらりと落ちた後、大量の血が噴き出した。
「痛っ!」
無理な体勢で避けたため、バランスを崩してそのまま床に倒れ込んだ。傷は浅いが、血が目に入って前がよく見えない。
満身創痍になりながらも、ライフェは素早く身体を起こして膝をつき、首だけで後ろを振り返った。
ゼラスは、剣を閃かせてすぐそこに立っていた。
(殺される……)
ライフェは全身のバネを使って思い切り前に跳んだ。しかし、一度は剣士の頂点に立った男が手傷を負った少女を逃すことはなかった。
「うぐぁっ!」
背中に鋭い痛みと熱さを感じて、ライフェは床に叩き付けられ、そのままその上を数度転がると、何かにぶつかって止まった。
体中がバラバラになったように痛み、すでに指一本動かすことさえ無理に思えた。
「ごめん……なさい……」
気を抜けば遠退きそうになる意識の中で、ライフェは呻くようにそう言った。思い浮かぶのはシティアの顔と、言葉。
彼女の言うことを聞いていれば、こんなことにはならなかった。
そういえばフラウスも言っていた。
「相手の実力がわからないと、実戦では生命を落とすことになりますよ」
シティアは一度対峙しただけでゼラスの力を見抜いていた。剣を交えてもないのにだ。
涙が込み上げてきた。悲しくて止め処なくあふれ出てくる涙を拭うことも出来ずに、ライフェは全身を震わせた。
もっとたくさんのことを教えて欲しかった。シティアのことが知りたかった。
しかし、負けたら死ぬのだ。それが剣士なのだ。
ライフェは嗚咽を洩らした。
けれど、死を覚悟してからほんの数秒後、ライフェはおかしなことに気が付いた。
つまり、自分がまだ生きていることに。
ゼラスがあの状態から、2秒以内にライフェを殺せないはずがない。じわじわといたぶりながら殺すつもりなのだろうか。
そう思い、ライフェは力を振り絞って首を上げた。そして、ようやく自分がぶつかったものを知った。
「あぁ……」
彼女のぶつかったものは、人間の足だった。自分と同じくらいの歳の少女の、力強く床を踏みしめる足。
ライフェの顔に希望が浮かんだ。
助かる……。
「ゼラス。この子の受けた傷を、千倍にして返してあげる」
ウィサン王家の光り輝くレイピアを手にして、王女シティアが低い声で言い放った。
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